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律法学者たちと、ファリサイ派の人々への痛烈な批判が展開されています。「あなたは偽善者」だと追及されて穏やかでいられるはずがありません。彼らは、憎悪と敵意を抱かずにはおれませんでした。そして数日後、主イエスの居場所は十字架の上にあったのです。

ファリサイ派の人々は、あらゆる収入の10分の1を捧げることに徹していました。律法の実践において彼らは大変熱心でした。けれども、主イエスが問題としたのは、外側の美しさでカムフラージュされた心の部分でありました。人間の罪というものは、偽装するが故に掴みにくく、また自覚もされにくいものです。

ミカ書6章は、「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかはお前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。」と語ります。
神は礼拝堂に閉じ込められた方ではなく、「歩む」方なのです。神はご自分と共に正義と慈しみと謙りをもって歩むものを求めているのです。献金とは、献身のしるしです。それは「この私を捧げます」「私はあなたと共に歩んでいきます」「御用のために用いて下さい」との精一杯の証しです。この点において、彼らは献げものを忠実に献げているように見せて、実は神が本当に求めておられるものを何も献げていないのです。むしろ、自分を出し惜しみしているのです。10分の1を献げる自分に満足し、それが自分を誇る材料に役立っている、それほど不幸なことはないと主は言われるのです。

また、「あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれにせよ。そうすれば、外側もきれいになる」(25〜26節)
これもまた律法という外側の形式にばかり囚われ、本来求められている心が欠落しているとの指摘です。どんなに律法の外側を忠実に守っても、内側の心が、神に養われていない現実を不幸だと言われるのです。
神様は、私たち内側をもお造り下さる方です。案外、私たちはこのことを忘れ「心は自分のものだ」と勘違いするものです。しかし、心を自分のものとしてしまうことは、自分の思いに囚われているということです。そしてまた、心を神から盗み取ってしまっているということにもなるでしょう。内側は自分の強欲と放縦で満たし、外側ばかりが綺麗で清潔であることが、なんと空しく哀しいことか。そうではなく神によって心養われることを求めよというのです。

かつて旧約の預言者たちは、イスラエルの堕落した状態に警鐘を鳴らしましたが、耳障りなことを語る預言者たちを、人々は迫害し、亡き者にしました。結果、他国の侵略によって滅亡しました。この過ちと挫折を教訓とし、悔い改めの証しとして、かつて先祖が亡き者とした預言者たちの墓や記念碑を建てたのです。しかし、それも形だけで、実際の生活には悔い改めがない。それが人間の罪の現実です。何度取り除こうとしても雑草の如く生えてくる。「ああ、もう仕方ないや」と開き直ろうとする。しかし、そのような意に反して、主イエスはこう言うのです。36節「はっきり言っておく、これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」アベルからゼカルヤに至るまで、あまりに多くの義しい人々の血が流されてきたのです。そして、今その責任と結果が、この時代の者たちに迫っているというのです。免除も猶予もないのです。そして、この誰も負いきれないほど大きな罪の責任を取ったのは誰か、かく言う主イエス・キリスト御自身であったのです。

人々はイエスを十字架につけて殺しました。これ以上、目障り耳障りなこの男を野放しにはしておれなかった。十字架の死、それは人間の罪の勝利宣言であるかのようです。しかし、世が自らの勝利を高らかに宣言するその時、神はそこで赦しを宣言して下さっていました。自分の立場を守ろうとする巧妙な人々の中で、主イエスは命を惜しまず捨てて下さいました。この方の死によってこそ、救いようのないほど頑なな罪の世は贖われました。
神は、キリストの死のゆえに、世の罪を赦すことを揺るぎなく決断して下さいました。私たちは、今日、このただならぬ恵みによって生かされているのです。

神はこの世に求めます。「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩む」ことを。
たとえ、その歩みがおぼつかなくても、主は私たちに必要な言葉を掛け続け、諦めずに道を示し続けて下さいます。「一日一偽善」ならば容易い私たち。けれども、主なる神が、一日一日来る朝ごとに、私たちを「善し」として、この日を与えて下さっている恵みに感謝しつつ、一日一善、否「一日一愛」の日々を、主に献げていくものでありましょう。

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