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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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飼い葉桶に眠る主イエスを中心として、マリアとヨセフ、羊を連れた羊飼いたち、東方の学者たち、クリッペ(キリスト誕生の情景を人形で表した飾り)は、なんとも心温まります。その暖かさは、きっと様々な背景を持つ者たちが、神によって集められた一つの家族の姿を描き出しているところにあると思います。いと小さき嬰児イエスを真ん中に、皆が神の愛のしるしを見つめている。「これは教会の姿なんだ」と子ども心にも感じるものがありました。

主イエスはガリラヤで多くの病人を癒しましたが、「奇跡」とはどこに見出されるべきでしょうか。それは、心身の病が取り除かれることではなく、人々が互いの重荷、痛みに気付き、認めあい、喜びあえる共同体全体の回復、そこに癒しの奇跡があると言えるでしょう。しかし、それでも根本的なものが足りません。まことに癒されるべきは、病気や社会的な人間関係の次元をこえて、何よりも神様との関係においてです。その点で、すべての人が癒される必要を抱えているのです。奇跡はどこに見出されるのか。十字架においてです。神を忘れ自己中心的な私たち、互いに裁き合い、排除しあう私たちの罪をその身に負って死んで下さったこと、ここに神と世の関係回復、癒しの奇跡があるのです。十字架によって取り戻された神との生きた交わりの中で、病む者も健康な者も、喜ぶ者も悲しむ者も、富む者も貧しい者も一つの神の家族となっていくのです。

故郷ナザレへとやってきた主イエス。人々は、主イエスの言葉とその業に驚嘆しました。しかし、その驚きは「大工だったあのイエスがどうして?」というものでした。彼らは、主イエスのことを、大工であったという過去からしか理解しようとしませんでした。イエスの過去に囚われて、今、イエスにおいて始められている神の恵みの業そのものに目を注ぐことができなかったのです。

弟子のペトロも、パウロも皆、過去を取沙汰され揶揄されました。私たちはどのように他者を見ているでしょうか。生まれや育ち、かつての生き様というものが、いつまでもくっついてきて、今のその人自身を見ることができない、見ようとしない、そうした不自由な目を持っていないでしょうか。それは、神ではなく、人をしか見ていないということです。相手にレッテルを貼り、色眼鏡で見てしまう無理解、誤解や偏見といった心のゆえに、その人を神のまなざしから知ろうとできないのです。

今や、主イエスの十字架によって、すべての者が神様との回復された関係の中で生かされています。神はイエス・キリストのゆえに、限りない愛と赦しを込めて私たちに深く関わっていて下さいます。私たちの只中に生き、その業を繰り広げておられるのです。

礼拝への「招きの言葉」にこうありました。「昔のことを思い巡らすな。見よ、新しいことを私は行う。今それは芽生えている」。過ちや恥、欠点、どのような過去があるとしても、今日この人にも神様は繋がり、そこで御業を始めておられるのです。それは「芽生えている」のだというところに、互いの心を注いでいくということが大切です。「目を覚ましていなさい」との主の言葉が、アドヴェントのこの時、私たちの心の中に響きます。心の目を覚まして、働いておられる神の恵みを確かめたいと思います。

ナザレの村で受け入れられなかった主イエス。このことを深く悲しみながら、そこを立ち去りました。しかし、この挫折とも言うべき経験が12人の弟子たちの派遣という次なる出来事の契機となりました。「ナザレで福音宣教などしなければよかった!」とひどく後悔し、「もうやめた!」投げ出したというのではなく、かえって主イエスは、その心の内にある決意を新たにして十字架への歩みを進めていったのです。
私たちが神様に愛され赦された者としての交わりの中で、神の家族とされていくことを願いつつ、主はその命を捧げて下さいました。

この世界は、主イエスを受け入れなかったナザレの村です。主は、「あんなところになど行かなければよかった」「もう二度といくものか」と後悔し、見捨てた方でしょう。いいえ、「再び来る」と約束されたのです。ご自分の帰るべき愛する故郷のように再び来られるのです。その日、その時、私たちは一つの神の家族としての交わりの中にこの方を迎えたいのです。

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