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「あなたがたは地の塩である。」「あなたがたは世の光である。」この言葉は、偉業を成し遂げた人や、優れた才能を持つ人に向かって、「あなたたちは立派だ、世に輝ける光だ」と賞賛しているのではありません。むしろ、この世の栄光というものからはかけ離れたガリラヤの民衆、貧しさや病、差別や偏見、様々な重荷を背負わされていた人々に向かってです。神の国から一番遠いとみなされていた彼らに向かって、間近で告げられる言葉です。

「世の光になりなさい」(命令)でも、「きっと世の光になれるだろう」(希望的観測)でもありません。そのままのあなたが、いま世の光・地の塩なのだという宣言なのです。

「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう」と言われている通り、塩は塩気があってこそ塩です。「塩気」は塩にとっての本質です。塩気のない塩があるならば、それはただの結晶であるように、人間にとっての本質である「塩気」とは何でしょう。それが無いと私はもはや、ただの肉塊に過ぎないというほどに不可欠な本質。それこそ神様の「愛」でなくして何でしょうか。

塩気のない塩が、「何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけ」(13節)であるように、この世の中、同じような扱いを受けている人々がいます。イエス様の話を聞いていた当の群衆の多くがそのような現実を生きてきたのではないでしょうか。「障がい者なんていなくなればいい」、「役に立たないものはいなくなればいい」という身勝手で危険な優性思想が起こした相模原の殺傷事件からもうすぐ一年が経過します。あの事件は、私たちの生きるこの社会全体の実態を暴露したものではなかったでしょうか。私たちの生きるこの社会こそ、ヘイトで溢れるガリラヤなのです。

しかし、そこで主イエスは告げるのです。「あなたがたは地の塩である」。塩に塩気が不可欠なように、あなたは神の愛が込められた存在なのだ、と。それは何人も奪い取ることの出来ない「尊厳」というべきものです。

「あなたがたは世の光である。」ろうそくに一つ一つ火を灯していくように、主イエスは「あなたは光である」「あなたも、そしてあなたも光である」と告げ、そしてその輝きを守ろうとするのであります。「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」(イザヤ書)方として、イエス・キリストは、命をかけてその輝きを覆い守る方です。

先日、北海道で行われた部落解放全国会議で初めて二風谷ダムを訪れました。ダム建設という目的のために、アイヌ民族の集落は水没させられました。この侵略的な工事に反対して裁判を起こした萱野茂さんのご子息から、アイヌのことわざを教えて頂きました。「カント オロワ ヤクサクノ アランケプ シネプ カ イサム」(天から役割なしに降ろされたものはひとつもない)。主イエスの言葉と合い通ずるものがあります。

あなたは地の塩、世の光だ。それは神によってかけがえのないものとして愛されているという意味であると共に、世において塩・光としての役割を与えられているのだという意味も汲み取れるでしょう。生きる上で塩と光が必要であるように、あなたは自身が誰かを生かす存在であるということです。私たちには皆、若い時、老いた時、活動する時、病に伏す時、その時々において自分と他者に与えられた色とりどりの役割があるということに心の目を開かされていくことが大切です。主に愛によって照らされた光、主の愛によって味つけられた塩としての喜びと尊厳をもって互いに生き、そして生かし合う時、この世全体は照らされます。

「ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」(14〜16節)。

「役に立つか、立たないか」それは、ある一面から見た社会的評価でしかありませんが、そのような貧しい発想にいかに振り回されやすい世界でしょうか。そもそも、私たちは神様という方を前にして、「自分は相応しい」「役に立ちます」と言える者はいないのです。むしろ、もし神様がわたしたちの実態に落胆し、激怒し、「お前たちなどいなくなればいい」と一方的に滅ぼそうとしても、それを否定できる者は恐らく皆無なのです。しかし、神様は決して、私たちを滅ぼそうとはされませんでした。「再び地上にノアの洪水を起こすことはないと、あの時近い、今また誓う。再びあなたを怒り、責めることはないと。山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ平和の契約は揺らぐことはない」(イザヤ書54章)。ただ、イエス・キリストの十字架の犠牲によってこそ、神はこの頑なで、愚かで、心底貧しいわたしたちを、それでも赦し、愛し、必要として下さったのでした。その愛と赦しに照らされ、味つけられた私たち一人ひとりの存在を通して、神様は味のある言葉を豊かに語られるのです。

「我、聖書を読むひまなしと思えば誤りなり。聖書は読むにあらず。行うものなればなり。聖書を空文たらしむるなかれ」(田中正造)。み言葉は文字として止まりません。私たち一人ひとりの存在を通して、聖書は神の言葉は豊かに自由に語られる、一人ひとりが神様の手紙としての役割を与えられています。

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