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「草木も眠る丑三つ時」、弟子たちの集まっていた部屋の真ん中に復活のイエスが現れましたが、彼らはそれを「亡霊だ」と恐れました。復活したことは分かっていても、まさか今、ここに主が現れることなど全く想定していなかったのです。「まさか」の只中に主は現れる、それがこの聖書箇所の第1ポイントです。

そして、イエスは、弟子たちに十字架の傷跡を見せながらこう告げました。「まさしくわたしだ(わたしはある)」。つまり、イエスこの方の存在は、何ものにも左右されず、規定されず、無条件に、一切に先立ち、「あってあるもの」なのだということです。主・キリストとしての永遠性、不変性、絶対性が込められている言葉です。主イエスは「わたしはある」と私たちに言われます。まずわたしがいて次に主イエスがおられるのではなく、常にまずそこに主イエスがおられ、その現実の中でわたしが生かされている、ということです。この順序・関係は決してひっくり返りません。 

非常に驚く弟子たちの前で、イエスは、焼き魚を食べ始めました。イエスは復活の事実をあっと驚く奇跡によって証明してみせたのではなく、「焼き魚を食べる」という、奇跡とは最も遠いごく日常的な振る舞いをしました。また、その復活は、亡霊とか霊魂といった類ではなく、焼き魚を食べるくらい確かな、「体」を「具」えた復活なのです。復活の主イエスは、私たちのごく日常の中で、「具体」的に関わって下さる方です。それは決して、曖昧で漠然としたものではありません。中途半端で気まぐれで途中で私たちを投げ出すような関わり方でもありません。いつものように、いつまでも、私たちの命に、具体的に徹底的に真実に関わって下さいます。「まさしくわたしだ」と、私たちの命の真ん中にあってある方です。

復活節は、主イエスだけでなく、私たちもまた復活の希望を与えられていることを確かめる時です。使徒信条において、「体の甦り、とこしえの命を信ず」と告白していますが、では私たちの体の甦り、復活とはどういう状態なのでしょうか。聖書にはいくつかの表現が見られます(霊の体、天使のようになる…など)しかし、それはいくら追究してみても恐らくどれも見当違いです。大切なことは、死後の復活がどんな状態かではなく、死後もなお「わたし」が神様に具体的に知られ大切にされて「わたし」であるのだということです。復活の信仰、それはたとえ自分が生きるにしても、死ぬにしても「神様のものとされている」この事実だけはとこしえに揺るがないという希望に立って生きることです。(それ以上先のことについては安心して神様に委ねることにしましょう。)すべてを虚無に帰させるような死の闇の只中においてでさえも、私たちは、主イエスの命に結ばれているならば、主イエスと同じように「まさしくわたしだ」と明言できる確かな存在とされています。もし、この希望なしに肉体だけが甦ったとしても、それこそ「亡霊」に等しく、そこに救いと呼べるものはないのです。

イエスは、聖霊を与える約束を残して天に上げられました(50節以下)。「イエスは手を挙げて祝福された。そして祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」。その手には傷跡があるのです。それは私たちの罪によってつけられた傷であり、神様の愛、赦しのしるしとしての傷でもあります。その傷は私たちと神様とをつなぐしるしです。主イエスはその手を降ろすことなく、祝福しながら天に昇っていきました。その手は、降ろされることはないのです。そして私たちの只中に、「まさか」「まさしく」差し伸べられているのです。

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