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>札幌北光教会/トップ  >牧師紹介・説教  >五十歩百歩、それからの一歩


今日の聖書で、イエスは言われました。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」

他人の目の中にある、小さな小さな「おが屑」が見えるかもしれない。しかし、実は自分の目の中に大きな「丸太」が入っていた。中国の古い言葉に「五十歩百歩」という言葉があります。戦争のときに戦いを放棄して、五十歩だけ逃げた人が、百歩逃げた人を笑う。しかし、逃げた「歩数」に違いはあっても、同じく逃げたことには変わりはないのだから、笑うことはできない。五十歩逃げた人のことは目に付くかもしれないけれども、実は自分が百歩逃げていた。いや百歩どころか、千歩も一万歩も逃げていた。イエスのお言葉は、私たち人間の本質的な姿を鋭くついたものであると思います。

かつて私は病院に勤めていました。80代のある女性が、不仲になっていた60代の娘さんと数十年ぶりに再会したという出来事がありました。母親の余命は僅かであることを伝えても、「どうしても会わない」と言っていた娘さんが、最後の2日に会いに来てくださったのです。

どうして会う気持ちになったのか。それは「孫の顔を見ていると、この人生で、多くの人から赦されて生きてきたのだから、もうこれでよくなった」という理由でした。

60年かけて、赦されて生きてきたことを悟った彼女は、自分の身にふりかかったた事柄を受け入れて、母のもとへ来てそれを伝えたのです。

聖書の中には、自分の罪を棚上げにして、人の罪を指摘してしまう出来事が数えきれないくらい出てきます。はっきりしていることは、イエスが言われているように、まずは自分をしっかりと見つめなくてはなりません。「まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになる」と、イエスは言われます。

北星附属高校の生徒に年に1度、学校の礼拝についてのレポートを書いてもらっています。中には要約の言葉を丸写しの人もいますが、正直な言葉を書いてくれる人もいます。1年生のある男子生徒がこんな言葉を書いてくれました。

「僕は高校に来て初めて聖書を読みました。とてもいい言葉があると思うのですが、一つ気にいらないことがあります。それは、すべてを神頼みしているところです。否定するつもりはありませんが、僕は自分の道を自分で掴み取ってゆきたいです」

率直な疑問を表現してくれたので、私は「正直で、とってもよいですよ。でも、なぜ、キリスト教を信じる人が、神さまを必要としている人がいるのか、これから考えてみてくださいね」と書きました。

私は生徒たちに、「本音と建前を使い分ける」賢い人間にはなってほしくないと願っています。怒られるから、叱られるから、悪いことをやらない。褒められたいから、認められたいから何かをするのではなく、人が見ていないところでも、自分の意志をもって考えて行動して欲しいのです。

「僕は自分の道を自分で掴み取ってゆきたい」。素晴らしいことです。でも、自分が意図せずに人を傷つけた時、自分の力だけで解決できるでしょうか。もしそうした他人の犠牲の上に今の自分が成り立っているのならば、それは赦されることなのでしょうか。

建前ではなく本音で言うと、私は、いや私たちは、どうしようもない自己中心性を持っていて、気がつかなくても、目の中の丸太をもって、人の目の中のおが屑を探しては、それを裁いてしまう。傷つけてしまう。許されないことをいっぱいしてきたかも知れません。しかし聖書は、そんな私であっても、神さまが愛して、赦してくださっている。私が自分の力で掴み取るには、神さまが語る愛からは程遠いものかもしれません。私たちが何かを選択していく。それは、神に頼るのではありません。神が私に何を望まれているのか。それに応えていく、それが信仰です。開き直って、少しだけの愛で構わない、神はそうは言われないのです。何もせずに、自分の力で道を切り開く努力もせず、ただ神から与えられるものを待っていることを勧めているのではありません。

あなたは、赦されて生きてきている。じゃあ、あなたは、これから何を伝えて生きてゆくのですか。不平、不満ですか?それとも、喜びですか?建前ではなく、人を赦す厳しい生き方ですか。

今日選んだ「あなたもそこにいたのか」という讃美歌は、2000年前、イエスを十字架につけた人たちと、現代を生きている私たちが、まるで同じ次元、空間に立っているように問いかけてきます。

「あなたもそこにいたのか、主が十字架についたとき。あなたもそこにいたのか、主がくぎで打たれたとき」。

実際に、私たちはその場にはいませんでした。でも、五十歩百歩ではないか。ふるえるような深い、深い、罪を背負って生きていないだろうか。そう問いかけつつも、この歌の最後の詩には、「あなたもそこにいたのか。主がよみがえられたとき。あぁ、今、思い出すと、深い深い愛に私はふるえてくる」と歌います。

神が私たちにしてくださったことは、私たちの目の中に丸太がある、そのことを知らせてくださっただけに留まりません。丸太がある、その丸太を取ってくださる神の深い、深い愛がある。そして私たちの目を澄んだ目にしてくださる。ここが出発点になります。

五十歩百歩、その違いはあっても、私たちは十字架のもとでその神の愛を知り、神の赦しを信じ、再び、地の塩、世の光として、それからの一歩を踏み出してゆきましょう。

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