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主イエスの時代、ユダヤ人とサマリア人の間には、数百年に亘る根深い対立構造がありました。ユダヤ人はサマリア人を神を冒涜する汚れた民として蔑視・忌避していました。しかし主イエスは、ガリラヤへと向かう際、「サマリアを通らねばならなかった」(4節)のです。それは「止むを得ず」ではなく、「サマリア人に出会うために、なんとしても彼らに福音を告げ知らせるために」という理由です。主イエスは皆が使う迂回ルートではなく、直進するのです。

サマリア人の町シカルの外れにある井戸に水を汲みにきた女性に主イエスは出会いました。町の中の水場ではなく、わざわざ町はずれのこんな古びた井戸に、しかも誰も水汲みなどしない炎天下、人目を避けるようにやってきた女性の内にある命の渇きを主イエスは知って下さいました。

この井戸は、アブラハムの孫ヤコブが掘ったとされる井戸でした。神がヤコブとその家族を養い導いて下さった祝福の象徴である井戸です。この女性も心のどこかで願っていたのかもしれません。「私も神に顧みて頂きたい、主の祝福が欲しい」と。来る日もくる日もここで水を汲み、しかし一向に満たされることのない命の渇きが彼女の内に広がっていました。どんな気休めの言葉も、一時の楽しみも、すぐに蒸発しては消えるような深刻な渇きです。「自分はなんのために生まれ、生き、死んでいくのだろうか」、どんなに探しても答えの見つからないまま、今日もまたこの水を汲んで生きるのです。

そんな日常の中に、突如主イエスの言葉が飛び込んできました。「水を飲ませて下さい」。彼女にとって、自分に話しかける人がいたということ、しかも男性であり、なにより対立するユダヤ人であったことは驚き以外の何ものでもありません。イエスは決して迂回せず、彼女の内面にまで踏み込んできました。この女性にかつて5人の夫がいたこと、いま連れ添っているのが夫ではないという事情を言い当てました。それは単に彼女の男性遍歴を言い当てたという話ではなく、彼女がその歩みの中で味わってきた葛藤、苦悩、悲嘆といった渇きを主はすべて知って下さっているということです。十字架に磔にされたイエスは「渇く」と言われました。主イエスは、人間の渇きを自らのものとしてご存知の方なのです。

水を求めるイエスに女性は言いました。「あなたは汲むものをもっていないし、井戸は深いのです」(11節)。そう言いながら、彼女は気づいたでしょうか。命を潤す水を汲む方法を持たず、ただ深い闇を眺めるほかないのは、むしろ自分自身であるということを。そこで主は言われました。「この井戸の水を飲むものは誰でもまた渇く。しかしわたしが与える水を飲むものは決して渇かない。わたしが与える水はその人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」

疲れた時に飲む水ほどおいしいものはありません。思わず「生き返った〜」と言ってしまうくらい、味も臭いもないのにおいしい。生きていることを実感させます。水も、空気も、あるいは愛というものも、およそ人が生きていく上で本当に必要なものは、案外、色も形もないものです。それなのに私たちは自分の人生に色々と着色・脚色したがります。あれでもない、これでもないと満たされずに、自分の色というものを探し求めて、悩み、迷い、焦り、途方に暮れ、渇き果ててしまっている人が多いというのは、どういうことでしょう。

しかし、その渇きの中でこそキリストは出会って下さる方です。キリストという泉は価なしに与えられる水です。その水を汲むためには、なんの道具も必要なければ、条件もないのです。その水は、エルサレム神殿にあるのではなく、ゲリジム山の神殿にあるのでもなく、今ここにあるのです。ユダヤ人だけがあるいはサマリア人だけが飲めるのでもなく、皆がその水を飲むことができるのです。ここに私たちの命を満たす水源地があるのです。
この方が私のすべてを知り、見出し、包んでいて下さる。この愛が、水のように命全体に染みわたってくる時、たとえ自分がいかなる色・形であろうと、生きていること、生かされていることを喜べる者とされるのです。問題は、ここにこそ渇きを満たす水があるということを知り、「その水を下さい!」求めるということです。

主イエスは言われました。「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時がくる。今がその時である。なぜなら父はこのように礼拝するものを求めておられるからだ」(23節)。話は、礼拝のあり方を問う内容になっています。いや始めからそうなのです。私たちを本当に生かす礼拝とは、人目を避け、再び渇く水をただ習慣のように汲みにやってくるような空しい礼拝ではなく、「どうせ駄目だろう」という諦めの礼拝でもありません。
自分が手にする小さな水瓶を置きましょう。そして「婦人よ、わたしを信じなさい」と呼び掛け、迂回せずまっすぐに向き合って下さり、条件なしに愛してくださる主を、私たちも条件なしに信頼して礼拝することです。「折が良い時」「いつかその内」ではなく、今この時こそ、「その水を下さい」と言わずにおれない自分なのだということを知りましょう。

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