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ヨハネによる福音書の復活物語の特徴は、イエス様が何度も弟子たちに現れることです。日曜日の朝と夕、その1週間後、さらにはそれから何日かしたとき。何度も繰り返して、復活のイエス様が現れた出来事が描かれているのは、ひとりひとりの人生のどこかでイエス様は会いに来てくれる、というメッセージを伝えるためだと思います。また、福音書を書いた人々にも復活のイエス様は現れた、ということができます。そしていまを生きているわたしたちにも、当然、復活のイエス様は出会ってくださいます。なぜなら、神様がひとりひとりを愛しているから。だからこそ、復活したイエス様との出会いが用意されているのです。

ある日の早朝、イエス様はペトロに「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」という質問をします。ペトロはこの質問に回りくどい言い方で応えます(15節)。この前にも2回、ペトロはイエス様と出会い、喜びに満たされたはずでした。しかし、イエス様を見捨ててしまった負い目から、イエス様と向き合うときに躊躇してしまう自分がいるのでした。そのペトロにイエス様は3回、羊を牧することを託します(15節~17節)。それでは、ペトロは、完璧に勤めを果たせたのでしょうか。「非の打ち所がなかった」、というのは言い過ぎでしょう。実際、ガラテヤの信徒への手紙2章では、パウロがペトロを非難したということを綴られています。確かに、ペトロは牧者としては至らない点があったかもしれません。ですが、イエス様が「わたしを愛しているか」という質問のあとに「わたしの羊を飼いなさい」と言ったことに、ペトロをただの労働力としては見ていない深い愛があると思うのです。「わたしの羊」、それは「わたしが愛している人々」と言い換えても間違いではないでしょう。いまのペトロは、愛を語ることは出来ないけれども、イエス様が愛している人々との交わりを深めることで、いつの日か「主よ、わたしはあなたを愛している」と言えるようになる。それは、イエス様がペトロを愛している何よりの証拠ではないでしょうか。

ペトロは伝承では、殉教したということになっています。「どのような死に方で」という表現ですが、これは病気だとか事故だとか殺されただとか、そういう意味での死に方に限定されない表現です。言い換えれば、「どのように死を受け止めるか」ということです。18節を読み解けば、ペトロは、若いときは自分で服の帯を締めて身支度をして、教会の指導者として精力的に勤めていたことでしょう。しかし、老齢になり、体力の衰えから、手を伸ばして何かに掴まらないと立てなくなった。また、だれかに手伝ってもらわなければならないほど、身の周りのことが出来なくなった。それでは、ペトロが現した神の栄光とは何でしょうか。それは、「救い主イエスをくださった」という事実そのものではないでしょうか。世を愛している神様その方だけが、だれひとり失われること無く救うために救い主イエス様をくださった揺るがない事実。それが何よりも神様への栄光のはずです。19節の最後、イエス様はペトロに、「わたしに従いなさい」と言いました。従うということは、目の前に導く存在がいるということです。ペトロは、その生涯において、死の時でさえもイエス様を見失わずに生きることを確かにされました。

今日の説教の前に『どんなときでも』という賛美歌をうたいました。作詞者は「高橋順子」とあります。彼女は1959年に生まれて、1967年に逝去されました。賛美歌の解説によれば、7歳で生涯を終えたそうです。そしてこの歌詞は、彼女の闘病生活の中で生まれたものであるといいます。高橋順子さんは、やりたいことがたくさんあったことでしょう。しかし、そのほとんどは叶いませんでした。その彼女と一緒に生き、一緒に喜び、一緒に苦しむ神様が、イエス様をくださった。そして高橋順子さんの目の前にも復活のイエス様がいた、ということは疑いようのない事実です。イエス様を決して見失わなかったからこそ、この歌詞を遺したのです。イエス様の愛を通して、神様の愛に気付いていたことが歌詞に表れています。この小さい彼女も神の栄光を現した偉大な生涯だったことは言うまでもありません。

ヨハネによる福音書の冒頭を原文から直訳すると、「初めに言があった。言は神のところに向いていた」となります。神様が発した言は、吐き出されたままではなく、神様のところを向き続けています。イエス様が向かう先、それは世を愛する神様のところです。わたしたちは人生の中で、神様の言であり愛の証しであるイエス様との出会いが必ずあります。目の前にイエス様が現れ、そして行く先を導いていくのです。導かれる中で、わたしたちも「救い主をくださった神様の愛」を広めていきましょう。

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