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ある裕福な家庭の父親が亡くなりました。たくさんの遺産が残されたのでしょう。父が亡くなったときの相続については、基本的には長子がそれを相続するというのが原則でした。しかし、いろいろな事情があるときには、それを原則としながら、他の兄弟にも配分するということが行われていたようです。

ところがこの場合、兄は原則論を建てに弟への一切の配分を認めなかったようです。兄と弟はそのことで激しくぶつかり、町の長老たちに裁定を求めたでしょう。しかし、町の長老たちは律法を越えて判断するわけにいきませんでしたから、兄の言い分を認めたのです。弟は面白くありません。

そこで、弟が思いついたのがイエスでした。自分の主張が間違っていないことを証明し、兄と自分との間に公正な配分を決められるのはイエスしかいないという思いで彼はイエスのところに訪れたのです。そしてイエスに不満をぶつけました。

「私にも遺産を分けるようにと兄に言ってください!」

するとイエスはこう答えたのです。

「私は調停人でも、裁判官でもない」そして、こう続けました。 「どんな貪欲にも注意しなさい」

あらゆる貪欲に注意しなさいと言ったのです。先程の人はこのイエスの言葉を聞いて当然不満に思ったでしょう。「自分は、貪欲なのではない。貪欲なのは兄の方であって、自分は実に適当な、慎ましやかな、応分の配分を受け取りたいと思っただけだ」

私たちもこの人と同じように思います。「自分は別に貪欲ではない。自分の働きにふさわしいものを得ているだけで、他人のものを無理にほしがったりはしていない。だから、これは特別に欲張りの人の話なのだ」

そういう思いを持つ私たちに対して、イエスは一つのたとえ話を続けられます。

ある豊かな農夫がいます。ある年、豊作になって作物が充分すぎるほど採れました。そこで彼はいろいろと考えて、倉庫を造って保管することにしたのです。そして、これだけの蓄えができたら何年分かの食料と生活に困ることはない。ちょっと休んで、美味しい食事を食べ、うまいぶどう酒を飲んで、楽しいときを過ごそう。」と思ったのです。

ある意味で、これは理想的な生活ではありませんか。誰かのものを奪ったわけではありません。彼は自分の畑で、豊かさを得たのです。誰かに迷惑をかけたのでもありません。貯えた財産で一儲けをしようとしているのでもありません。自分で働き、自分で得、自分で貯え、自分で使う、そして余裕ができたので、楽しんで数年間を送る。私たちも、できればそういう生活をしたいと切に願っているのです。

ところが神はこの人に言うのです。

「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」。たしかにこの農夫の画策は無駄になるかも知れません。しかし、神はこういう真面目な人を「一生懸命やったね」と迎えて下さるはずではありませんか。いったい彼の何が愚かなのでしょうか。

21節にその答えが出て参ります。

「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」

ここでイエスは2つの生き方を比較しています。一つは「自分のため」に生きている人間です。そしてもうひとつは「神の前に豊かになる」という人間なのです。イエスにとって、人間はこのどちらを生きるかということなのです。

最初の話しに戻りましょう。兄が悪いのでしょうか、弟が強欲なのでしょうか。イエスにとってはどちらも同じことなのです。兄も弟も、「自分のために」主張しているのです。この二人には、その富がなんのために与えられているのかという視点が決定的に欠けているからです。この富は、神から与えられたものであり、神の前に豊かになるために与えられたものなのです。にも関わらず、どちらが強欲で、どちらの取り分が多いのかと争っている…本当に与えて下さった方を見ていないのです。

また、先程の豊かな農夫も同じです。彼は誰にも迷惑をかけていないかもしれません。しかし、彼は自分のために生き、自分について語り、自分について考え、自分のために貯えたのです。その財が誰によって、何のために与えられているかということを考えてもみないのです。

みなさんはどうですか。今、ここで、死が訪れたとしたら「ああ、良かった」と言って死ねますか。自分の人生は本当に充実していたと死ねるでしょうか。私たちはみんな、まだ死ねないと思うのではないでしょうか。やり残したことがあると。でも、それでは1年後なら満足して死ねるでしょうか。5年後は、10年後は?同じことでしょう。

つまり、それはやり残しているのではありません。やっていないのです。本当の意味で生きていないのです。本当の自分として生きていないからなのです。

人間は自分のために生きるのではなくて、本当に生きているということの意味を味わい知りたいなら、「神の前に豊かになれ」と言われたのです。

私たちの日常生活の中で、希望のとき、失望のとき、怒りのとき、喜びのとき、悲しみのとき、いらだちのとき、元気なとき、病のとき、幸福なとき、不幸なとき、…その時に、その時、神は何を与えようとしておられるのか、神ならどうするのか、イエスならどうするのかと想像し、考えて生きるのです。それが神の前に豊に生き方です。私たちの生活、そのただ中で、私自身を神に献げていきましょう。

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