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愛する主の死を悼もうと墓へやってきたマグダラのマリアは、墓の石が取りのけてあるのを目撃し、墓の内部を確認しないまま、「主の遺体が取り去られた」と早合点し、その場を立ち去りました。

マリアから報告を受けたペトロと「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」(ここではヨハネと理解します)は直ちに墓へ走りました。すると二人は、どちらが先に到着するか競争したようです。結果、ヨハネの方が速かったとわざわざ書いてあります(4節)。ヨハネこそが筆頭弟子であり、イエスが愛された弟子だという優位性が秘かに主張されているのでしょう。

競い合い、比べ合う二人の姿は時に私たち自身の姿と重なります。人と比較することに心を囚われ、時に誇ったり、安心したり、妬んだり、自己卑下したり。しかし、そのような比較は、自分のものさしで測っているだけに過ぎません。

私たちにとって主イエスを信じる生活とは、誰かと比較しても仕方ありません。それは、主イエスの死の事実に近づいて行くこと、主の墓に向かって近づいて行くことにほかならないのです。それは、主が私のために死なれたという事実に直面することであり、ここに主に対する私の裏切り、背きの事実がある、そして赦しがあるということを眼前にすることです。主の死に近づく時、そこで自分を誇ることほど愚かなことはなく、また主がこの私のために死んで下さった以上、その私が自分のことを「私など」と卑下する必要もないのです。

比べ合う二人の弟子も、主の目から見れば欠点だらけ。しかしそんな彼らが主の復活を信じたということは、決定的に重要です。彼らが墓に来なければ、そして空っぽの墓を見、そして主の復活を信じることがなければ、後の教会は決して生まれなかったはずだからです。

墓に入るその時まで、二人は、主の復活に関する旧約聖書の預言を理解していませんでした。主イエスが捕えられた時も、主が死なれた時も、そして今墓に向って走ってくる時も、彼らの念頭には聖書の言葉など一つも浮かんでいなかったのです。たとえ彼らがどんなに聖書の言葉に親しんでいたとしても、それが現実に結び付くものではなかったのです。「聖書の言葉を、まだ理解していなかった」(9節)。この福音書を著したとされるヨハネ自身が、自らの無理解を正直に告白しているのです。

私たちもその点で同じことがあります。どんなに沢山の福音を耳にしても、それが自分自身と結び付かなければ理解することはできません。せいぜい「良い言葉」「ためになる言葉」でしかなく、その時は喜んで受け入れても、何か思い煩いや誘惑があれば、たちまち枯れてしまい、決して私たちを救う生きた神の言葉とはならないのです。

しかし、彼らは、今こそ信じる者となりました。「主は生きておられる」と。

「死」には様々な婉曲表現があります。「お隠れになる」、「草葉の陰で見守ってくれている」、「帰らぬ人になる」、「千の風になる」。これらはいずれも、この世の生と死を切り離さずに、死を日常生活の中に包摂する考え方です。「死んだけれども、居なくなったわけではない。どこかでそっと見守ってくれている」と。しかし、弟子たちが信じた復活とはそのような類いではありません。「主は十字架で死なれたようだけれど、実は今もどこかで私たちを見守っておられる」と、死を曖昧にして自分たちに都合よく理解することは、主を見捨て、逃げ出し、主の死に加担してしまった彼らに限ってできることではないはずです。

彼らが信じた復活とはどういうものでしょうか。

この後に続く箇所には、主イエスが弟子たちの「真ん中」に立ち、手と脇腹の傷跡を見せたこと、更には、ガリラヤ湖畔で漁をしていた弟子たちを迎え、岸でパンと魚の朝食を弟子たちに作って分け与える世話をされたことなど、具体的な所作を伴う描写があります。その細かい描写には、キリストが今日、私の人生の真ん中に具体的に生きておられ、しかもお客さん(ゲスト)としてではなく、「主」として生き、私たちの命を捉えて下さっているのだという信仰が表されているのです。復活のキリストが主として生きておられ、この方の命の中で私たちは生き、そして死ぬるのです。

朝の光が墓の中に差し込んできた頃、二人の弟子たちは、自分たちがもはや墓の中ではなく、絶望の中ではなく、復活の主の中で生きていることを信じたことでしょう。そして、わたしたちにも同じ朝が訪れています。復活の主イエスの命の中で、安息の息を深くついて、それぞれの人生のマラソン、主を証しするマラソンへと走り出し、走り抜いていきましょう。

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