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ここに出てきますヨハネは、バプテスマのヨハネと呼ばれた人物のことです。バプテスマのヨハネは、あの当時、イエスより有名な宗教的指導者でした。

歴史家のヨセフスは、領主ヘロデはバプテスマのヨハネの群衆への影響力を憂慮して殺したのだと伝えていますが、聖書では、別の視点が語られています。ヘロデが自分の弟の妻であったヘロデヤと強引に結婚するという事件がありました。ヨハネはそのことを公然と批判し、捕らえられ死海東部にあったマケラス城に監禁されたのです。すぐに処刑されなかったのは、ヨハネが民衆に大変人気があったからだといわれています。

24節以下を見ると、イエスは「言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。」と言ってますから、人間の中で最大級の評価をしているということになります。

しかし、人間とは不思議なものです。ヨハネの洗礼を受けるところまでは行きますが、その先へは進まないのです。ヨハネがどんなに力んでも、当時の社会の権力者であった律法学者達は動揺しません。ヘロデも動揺しないのです。その人間の哀しさをイエスも31節以下で語っています。『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、/泣いてくれなかった。』

18節以下を読みますと、ヨハネ自身もそのことに不安を感じ、イエスを問い質しています。「来るべき方はあなたなのですか。それとも他の人を待つべきでしょうか」本当にイエスは救い主なのかというヨハネのうめきが聞こえてくるようです。バプテスマのヨハネでさえイエスにつまずいているのです。

つまずきとは何でしょうか。

聖書でいうつまずきという言葉は、スカンダロンというギリシャ語が使われていて、これがもとになって醜聞を意味するスキャンダルということばができているそうです。そのスキャンダルとスカンダロンの決定的な違いは、真実の愛を行うという点です。

驚くべきことに真実の愛を行うことは、人間にとってスキャンダラスなことなのだと言うのです。

反射的に、そんなことはないだろうと思うのですが、イエスの十字架はそのことを明確に告げています。私たちは愛を行うものを十字架につけて抹殺してしまおうするくらい、恐ろしく悲しいものをもっているのです。

私たちもイエスにつまづくのです。イエスの言うとおりしたら、万端うまくいったというなら、誰も躓きません。イエスのいうとおり生きているのに、それでも苦難が降りかかってくるような経験をするから、つまづくのです。

人は愛につまづくのです。愛に生きることにつまづくのです。

私たちは自分の思いとは異なる神の意志を経験します。肉体的な困難や、精神的な困窮、あるいは人間関係の歪など、さらには自分という人間の欠陥など、各々が直面している問題は異なっても、あらゆる所で私たちは希望を失いそうになる危機的状況に出会うのです。

そうした状況の中で、私たちはイエスの言葉につまずくのです。そんなことをしていたら、馬鹿を見るのは私です!そう神に向かって叫んでしまうのです。そこで今日の28節の言葉を思いだしてほしいのです。

「神の国で、最も小さな者でも、彼よりは偉大である」

そこにおいて、神の支配を信じること、神の言葉を信じること、愛に生きることが、実はバプテスマのヨハネより偉大なことなのだとイエスは言われたのです。

私たちは、イエスにつまずくのです。それは誰でもそうなのです。バプテスマのヨハネでも、つまずいたのですから。しかし、そのつまずきの中で、もう一度イエスの言葉を信じて生きるときに、私たちは神の国の豊かさ、神の豊かさを体験することができるというのがイエス・キリストの約束なのです。

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