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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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主イエスの言葉を求めて肉迫する群衆の切実なまなざしは、岸辺に立つ主イエスを圧倒するほどのものであったでしょう。前には群衆、後ろには湖、主イエスにはどこにも隠れる場所はありません。
岸辺で漁師が網を洗っていました。夜通し苦労して何も捕れなかった徒労感に包まれながら後片付けをしていたのです。主イエスを取り囲んで騒然とする人だかりを鬱陶しく思いながら。主イエスは、岸につけられていた舟に乗り込み、持ち主のこの漁師に頼んで、少しばかり漕ぎ出しました。これが主イエスとペトロの出会いです。朝日に輝く湖を挟んで向かいあう舟上の主イエスと、その言葉に耳をすます岸辺の群衆。彼らの心には、神の子としての喜び、生きる希望が満ちていきました。朝日に輝く湖面は、群衆の瞳に生きる希望の光となって映し出されていました。

主イエスの言葉を思いがけず特等席で聴くことになったのが、舟を操る漁師のペトロその人でした。群衆に向かって語られた主イエスの言葉は、ペトロの心にどのように響いたでしょうか。少なくとも、この後、主イエスから「もっと沖に漕ぎ出して網を降ろしてみなさい」と命じられた時、「この言葉に従ってみよう」とする信頼がペトロの心に芽生えていました。一刻も早く岸に戻りたいと願望よりも、もうしばらくこの舟の上でこの方と過ごしてみたいと思える心が芽生えていました。それでも、まさかこの方と生涯共に歩んでいくことになるなど、ペトロはいささかも想像していなかったでしょう。ですが、主イエスはもう既にペトロの人生という舟に乗り込んでおられました。

主イエスとペトロの出会いは、劇的というには程遠いものです。主イエスは、彼の日常にひょいと現れ、そして気が付けば、すっかり主導権を握ってしまっておられるのです。同じことがわたしたちにも言えます。主イエスは、わたしたちの人生の舟に既に乗り込んでおられます。みなさんがこうして礼拝の場に集っていること自体、その証拠です。もしそうでなければ、皆さんはここに来るはずがないのです。そんなことせずにきっと今頃、ペトロが徒労感の中で網を片付けていたように一週間の疲れを感じ、また明日を思い煩いながら過ごしていたでしょう。既に主との出会いは始まっているのです。
ペトロが片付け途中の生業道具を舟に運び込んで漕ぎ出したように、わたしたちも、それぞれの繰り広げた一週間の網を抱えながら、主に導かれて礼拝へと漕ぎ出しています。いわば、わたしたちは毎週、この聖書の箇所を経験しているのです。そして、ぺトロが主の言葉を思いがけず間近で聴いたように、わたしたちも間近で聴くのです。礼拝で座る席は、どこも特等席です。それは、どんな理由にも勝って主イエスが間近であるからです。岸辺の群衆を慰め、神の子として生きる希望を告げた主の言葉を、わたしたちは間近で自分自身のこととして聴くように招かれています。

大勢の群衆が押し迫って求めたその主の言葉が、ペトロに向かって言うのです。「沖に漕ぎ出して、網を降ろしなさい」。ペトロの答えた言葉をわたしたち自身の言葉にしたいと願います。「あなたのお言葉ですから」。
主の言葉は、いわば網に必要な重りです。重りのない網を広げても、ただ水面にぷかぷか漂うばかりのように、どんなに知識や経験があっても、主の言葉を生活の端々にくくり付けずして、あなたは主の出来事を見ることはできません。
夥しい魚を仲間と共に引きあげた時、ペトロの心に生じたのは打算ではなく、主の言葉に対する畏れ、この方が自分の舟に乗り込んでいる事実への畏れでした。わたしたちは、礼拝を通して、この主の言葉が今日も告げられ、生きて働いていることを確かめるのです。

すべてを捨てて主に従ったペトロ。ですが、人はそんなにあっさりとそれまでの生活を捨て去ることができるでしょうか。事実、ペトロのその後の弟子としての歩みはつまずきだらけでした。決してすべてを捨てて主に従い抜けたのではなく、長い時間がかかったのです。そのことを思う時、この聖書箇所は、ペトロの弟子としての歩みすべてがぎゅっと凝縮された物語として読むことも出来ると思います。疑い、戸惑い、臆病、失敗…、弟子としてすったもんだあったすべての出来事を、ぎゅっと一言で表す時、主イエスとペトロの歩みは、このような話だ、と。
わたしたちも、自分の歩みを振り返る時が来たら、この物語のように知るのでしょう。主がわたしの舟に乗り込んでこられたこと、わたしがその言葉に従った時、あるいは従い得なかった時も主の言葉はいつもわたしの間近にあり続けたこと、その御業の中で導かれ、今日も変わらず主がわたしの舟に乗っておられるということ。いや、このわたしが主イエスという命の舟の中に乗っていたのだということを、夥しい魚ならぬ豊かな感謝の内に知るのです。

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