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アドベントの期間、教会では「救い主の到来を深い悔い改めの内に待ち望む」ことが伝統とされています。けれども、アドベントという言葉の元々の由来を調べてみますと、「近づいて来る」という言葉が語源となっています。私たちはクリスマスの喜びを祈りながら待つのです。けれども、本当に大切なのは私たちが「待つ」ということではありません。待つよりも先に、「神が近づいて下さる。」それが大切なことなのです。

ルカによる福音書は、3章からイエスの生涯、福音書の本文が始まります。今日の箇所には、「近づいて下さる神、イエス・キリストが来られたその時代とは、一体どのような時代であったのか」ということが書かれているのです。皇帝ティベリウスの治世第15年、紀元で言えば30年頃、その頃ユダヤを治める総督はポンテオ・ピラトでありました。そして、アンナスとカイアファが大祭司であった、と書かれています。これは、「30年頃のユダヤは、政治的にも宗教的にも、完全にローマに支配されていた」ということを言っているのです。ユダヤ人の王が治めるのではなく、ローマが指名した者が各地を統治して、大祭司も自分たちが選挙で選ぶのではなく、ローマにとって都合の良いカイアファにすげ替えられてしまう。国の政治を司る人を自分たちで選ぶことが出来ないのです。この頃は、ユダヤ人にとって、全ての自由をもぎ取られたような、屈辱的な時代であり、民は歯を食いしばりながら生きていたのです。彼らの苦しさや辛さは、もうとうに限界を越えて、涙すら枯れ果てるような時代でありました。正に世界は闇に包まれていたのです。神が近づいて来られた所はそのような世界であった、ということが書かれているのです。

今私たちの教会は、主任牧師の交代時期に立っています。安定していた12年強の期間を思うと、不安を抱いていらっしゃる方が多いに違いありません。かくいう私も、自分の経験不足や力不足を思いますと、教会をあらぬ方向へ追いやってしまうのではないかと、不安な思いで日々を過ごしています。この数ヶ月を乗り切った先、新年度からは新しい牧師との歩みも始まります。新しい牧師が遣わされることには大きな喜びを持ちますが、変化は人に不安や恐れをもたらしますし、その意味で言えば私たちの前には大きな不安が立ちはだかっているのです。けれども、今日の御言葉は正にそのような状況に立つ私たちに語られている御言葉です。悲しみに覆われたような世界、涙も枯れ果てるような時代、人々の不安や迷いや恐れの中に、そこに神は近づいて下さるというのです。

バプテスマのヨハネは、荒れ野で悔い改めを宣べ伝えたとあります。あの時代、なぜ荒れ野に向かったのでしょうか。それは、荒れ野がイスラエルの歴史では神と出会う場所であったからです。ヨハネは民が苦しんでいる現実を知りながら、その現実への具体的な解決を求めて神と出会うことを選び、御言葉に聞くことを選んだのです。希望が失われ、夢を見ることが出来ず、未来へ続く道を見いだだせないとき、その時に私たちに必要なのは神様の方向を向くことなのです。神様の方へ心の向きを変えて、神様の御心を知ろうと努め、御言葉に聞くことなのです。それがヨハネの伝えた悔い改めです。私たちに近づいて下さる方へ心を向けて、そこで語られる声に聞くことこそが私たちの歩む道なのです。それが、私たちの目の前にある課題への第一歩なのです。

私たちは限界があり、咲いたかと思えばすぐに萎み、枯れてしまうような力ない不安定な存在なのです。けれども、私たちにはいつ、どのような時でも、永遠に私たちに向けて語り続けられる御言葉があるのです。その御言葉に真実に向き合う時、私たちの前にある谷は埋められ、山も丘も低くされ、荒れ果てた闇のような世界に神の救いの業が現れる瞬間を私たちは目撃するのです。2000年前、荒れ果てた地平で起こった救い主の到来は、今、ここで、私たちの前にも起こるのです。共に祈り、御言葉に聞き従いながら、クリスマス、新年、新年度を迎えていきましょう。

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