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イエス・キリストのことばは人から人へと伝えられ、そして21世紀の日本に住む私たちにも伝わっているのですが、この後の「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。」から始まるイエスの言葉は、もっとも知られているものの一つでしょう。

マタイはこれを山上で行われたとしておりまして、そこから一連のイエスのことばを「山上の垂訓」「山上の説教」と呼ぶことが多いのですが、ルカはわざわざ17節で「山から下りて、平らなところにお立ちになった」と書いています。なぜ、ルカは「平地での説教」に拘ったのでしょうか。

一般的に高いところは神に近いところと考えられ、平地は俗的で人の欲望が渦巻いているところだというイメージがあります。

イエスが帰ってきた平地は、イエスを殺そうという憎しみがあり、そのための罠が仕掛けられており、悪意に満ちているところでした。その上、「イエスの周りにはおびただしい民衆がやってきた」とあります。その人たちは「教えを聞くために」「病気を癒してもらうために」「悪霊を追い出してもらうために」やってきたのですが、これらのことを言い換えると、生きることに迷っていて、自信をなくしてしまった人たち、心身が病み痛み、癒やされえない人たち、悪霊に憑かれているとみんなから言われ、人間関係をうまく造れない人たち、そんな生きる悩みを抱えていた人たちが押し寄せるように存在しているのが平地でした。

その平地の中で、イエスはその人たちを癒やし続けたと記されているのですが、注目していただきたいのは、その癒しのたびに「イエスから力が出ていた」と書かれてあることです。

イエスが癒やすというのは、彼のうちから力が出ていっているのです。それは、彼の魂の力を用いていることであり、またそれは彼自身が痛むということでした。イエスの癒やしは痛みを共感し、共有するところから、共に立ちあがっていくということなのです。

ところが、群衆はイエスの心身を思いはかるようなことはいたしません。「癒やされる」結果だけを求めて、押し寄せてきたのです。多くの人が押し寄せ、イエスの魂の力を奪っていこうとしているところ、それが平地の現実なのです。

しかし、イエスは敢えてそこにやってきたのです。そしてイエスはその平地においてあの祝福の言葉を語られたのだとルカは強調しているのです。

つまり、イエスは「人間が生きている場所で」語ったということを強調しているのでしょう。イエスの言葉は、私たちの生きているその場でこそ、矛盾と不条理と思える現実の中において力を持つのだと伝えているのです。

喜んだり、悲しんだり、泣いたり、笑ったり、叫んだり、自暴自棄になったり、疑心暗鬼になったり、不安になったり、恐れたり、おののいたり、あるいは人々から憎まれたり、憎んだりという、そういうもっとも赤裸々で悲しく切ない場面において、イエスは語ったし、私たちはイエスの言葉を聞かねばならないとルカは言っているのです。

様々なことが押し寄せて、私という存在を飲み込んでしまいそうな日常のただ中で、イエスは「それでも、あなたは神の愛の中にいるのだ。わたしが共にいるのだ。だから幸福なのだ」と宣言されたのです。そして私たちは、そういう日常のただ中でこそ、神の愛の中に生きていこうというイエスの招きの言葉を聞くのです。

ポーリン・レーンさんは、戦時中スパイ容疑で逮捕されます。全くいわれのないことでしたが、レーンさんは寒くて、小さな独房の中で約2年間を過ごさなければならなかったのです。

彼女はどのようにして2年間を過ごしたのでしょうか。彼女の世話をしていた女性看守はこのように証言しました。「レーンさんは、独房の中で、床の上にある恵みに感謝しつつ、その床を磨いていた。」看守はその一事で、「この人がスパイのはずはありません」と証言します。

喜び、憎しみ、裏切り、あるいは憎まれるという現実の中で、神様の恵みを感謝する生き方を貫いた人たちがいました。そして、現実の中で「何としてもイエスと共にあろうとする」その生き方にこそ真理があるのだと、「天上の友」は、私たちに語りかけているのではないでしょうか。

文責 筆者

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