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そもそも、ゲッセマネでの主イエスの祈りを一体誰が見聞きしていたのでしょう。弟子たちは皆、終始眠り込んでいたのです。マルコによる福音書は、あえて一人きりの主イエス、いわば「素イエス・キリスト」を描くことで、この方がどなたであるかを証ししています。すなわち、この方は真に人間であったのだ、と。誰も見聞きしていないところで、ひどく恐れ動揺し、苦しみ悶えながら祈るその姿にまことの神にして、まことの人間の姿があります。

「できることなら、この苦しみを、この時を過ぎさらせて欲しい!」。これは時としてわたしたち自身の祈りです。自分で望んだわけではない現実に立たされる時、激しく葛藤しなんとかこれを回避したいと願うことでしょう。誰も知らない一人きりの所で苦しみや恐れと闘いつづけたという方。今まさにわたしはゲッセマネにいるのです、という状況の方がおられるでしょう。「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」との祈りを教えた方ご自身が、その祈りに苦しまれました。「できれば」と言うか。信じる者には何でもできる」(マルコ9章23節)と一人の父親に強く告げた方自身が、ここであの父親同様に「できれば」と祈らずにおれないのです。これは果たしてみっともない姿、見苦しい姿でしょうか。いいえ、マルコ福音書は「ここにこそ福音がある」と言うのです。苦悶して祈るその姿に、あの父親の苦しみも、引いてはわたしたちの苦しみ、恐れの現実も知られ、担われていると言えるからです。実に、このゲッセマネでの祈りは誰の視点によって描写されているのでしょう。「それは、これを読んでいるあなたの目線に他ならない」と福音書は呼び掛けています。私たちが今日、主イエス・キリストという方の現実を目撃しているのです。

自分には受け入れがたい現実があります。一人では負いきれない責任、激変する生活の不安、希望の見えない務め、あるいは愛する者との死の別れ…。「取りのけて下さい」と呻かざるを得ない現実があります。しかし、そこでその人をなお立ちあがらせ、歩ませることができるものがあるとするならば、それは何でしょうか。人の励ましの言葉、労いや慰めの言葉、褒める言葉?いいえ、人間のいかなる言葉も力を持たない現実があるのです。あらゆる道が閉ざされたと思われるところで、なおも見出し、立ちあがり踏み出すことのできる道などあるのでしょうか。「それがあるのだ!」ということを、この主イエスの姿は私たちに示します。「アッバ、父よ」と呼びかける神、この方の御心にお委ねして進んでいく道がある。その道が、まさにこの時主イエスによって切り開かれていったのです。

神に委ねる、という道。多くの人は、それを最後に残った「神頼み」という最も頼りにならない道だというでしょう。しかし、信仰の歩みは「こんな道しかないのか」と望みなく頼りなく歩むものではありません。むしろ全く逆なのです。生から死へと向かうやり直しの効かないただ一度きりの人生、誰かに代わってもらうことのできないただ一つの人生です。あれかこれかと選択できない一度きりのただ一つの人生なのです。その道は、ただ神に委ねてこそ引き受け、担い進んでいくことのできる道です。本当の問題は、あれかこれかの選択ではありません。あなたはそこで主に委ねるか、委ねないかです。

委ねることは、「神頼み」ではなく、「神のものとなる」ことです。自分を神様のものとして明け渡していくこと。主イエスはゲッセマネで祈りを重ね、そして十字架という現実を引き受け担われました。しかし、それは神の子・救い主としての勇気、使命感が決然と選び取ったものというよりも、ただ自分のすべてを父なる神に委ね捧げた行為でした。そのようにして主が切り開かれた道へと、「立て、行こう」と呼び掛けられています。

罪びととして死ぬ必要のない方が贖いとなって下さった、身代金となって下さった十字架の出来事。これによって罪と死の虜であったわたしたちは解き放たれ、神の御手に取り戻されました。キリストの死のゆえに、わたしたちは全く神のものなのです。この福音に当の私たち自身がその事実にどれだけ目を覚ましているかです。人生は、死を迎えた日に神様にお返しするまでの「レンタル」ではありません。今日生きているその日々が、神ご自身のものにほかなりません。

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