札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光

日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

札幌北光教会/トップお問い合わせ
札幌北光教会/トップキリストの招き平和宣言過去の信仰告白オルガン結婚式・葬儀アクセスマップfacebook
教会案内礼拝案内集会案内牧師紹介/説教納骨堂/クリプト北光貸し会議室

>札幌北光教会/トップ  >牧師紹介・説教  >愛するために集められた


今日の聖書の箇所は「そのころ」で始まりますが、ファリサイ派がイエスを殺そうと相談し始めた「そのころ」のことです。誰かが自分に殺意に近い悪意を持っていることを感じると、人は反射的自己防衛的に動きます。そして、その動きが、相手との壁を一層厚くし、いよいよ修復不可能な関係になっていくのです。

そのとき、イエスは「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。」(12節)と記されます。山とは人のいないところで、神とまっすぐに向き合えるところです。しかも「夜を徹して」この祈りは続けられました。

イエスの夜の祈りということで思い出すのが、ゲッセマネの祈りです。この祈りにおいてイエスは汗が血の滴りのように落ちるほどに祈られたということが伝えられています。そうであるならば、この徹夜の祈りも同じ熱心さを持って祈られたに違いありません。

祈りの中で、イエスに示された道は、ファリサイ派を打ち負かす手段ではありませんでした。また、危機を回避する方法でもありませんでした。むしろ、受難の道を歩んでいき、その道は十字架の死へと至ることを示されたのです。そのイエスは自分の生きざまと死を、自分のこととして経験し、記憶し、そこに救いを発見し、人々に伝えるために十二使徒を選ぶということを与えられたのです。

問題は、選びの基準は何であったかということです。

十二使徒としてあげられた名前のリストの中で、シモン・ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、それにユダなどは良く聞く名前ですが、その他の人については断片的な物語は伝えられているにしても、その全体像を知ることはほとんどありません。俗説や伝承としてのその後の物語は存在しますが、歴史的に事実として確認することはできません。

けれども、この時点で明確なことは、彼らは漁師や徴税人や熱心党の人だとされていて、宗教的な働きによって民衆から尊敬を受けていたような人はいないということです。言い換えるならば、平凡な人たちであり、十二使徒とされるための資格や能力を持っていたとはいえないということです。

ではなぜ彼らが十二使徒なのでしょうか。その根拠があるとすればただ一つです、「イエスが選んで呼び集めた人」という一点です。

私たちも今この教会に連なっている。それは、私たちに資格があったわけではないのです。あの弟子と同じように、平凡であり、いやそれどころか弱さと貧しさをもっており、それによって失敗したり、逃避したり、時には裏切ったりしてしまうのです。

けれども私たちは自らを「キリスト者」だと胸をはりたいと思います。なぜなら、私たちがキリスト者であるのは、自分の側に根拠があるのではなくて、イエスが「選んで」呼び集めて下さったことが根拠だからです。

その意味では、教会はいびつなものが集まっています。弱さを持って、失敗を犯してしまいます。逃げてしまうし、避けてしまうし、ごまかしてしまうし、サボってしまいます。けれども、そういう私たちをイエスは選んで、集めて下さったのです。

問題は何のために集められたかということです。教会はイエス・キリストの体であるといわれます。イエスの御心をこの世界で、生きて、動いて、表すために集められたのです。そしてイエスの御心とは、「愛すること」です。

憎むためではありません。恨みを晴らすためではありません。私たちは、愛するために集められたのです。人を愛するために、人々を愛するために。敵のために祝福を祈るために、すべての人と平和に過ごすために、悪に対して悪で報いるのではなく、悪に対して善を生きるために、集められたのです。

とてもできない…そう思われるでしょう。その時、私たちは思い出すのです。十二使徒を選び、集めるために、イエスは夜を徹して祈られたのです。この祈りこそ、私たちの愛する力の根拠なのです。

「ゆるしうる者をゆるす、それならどこに神の力がいるか、ゆるしえざる者をゆるす、そこから先は神のためだと知らぬか」(八木重吉)

前のページに戻る

お問い合わせ北光幼稚園

個人情報保護方針について