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>札幌北光教会/トップ  >牧師紹介・説教  >ベルゼブルと呼ばれようとも


預言者イザヤの口を通して神は言われました。「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は、大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」(マタイ12章18節以下)

マタイによる福音書は、この言葉によって、イエス・キリストという方を言い表しています。すなわち、「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」方なのです。今にも傷口から折れそうになっている細い葦をそっと支え、くすぶってばかりの小さな灯火を、決して消すまいと覆い守って下さる方です。そして、イエス・キリストこの方に「わたしの霊を授ける」(18節)と神は告げられたのです。

主イエスによる癒しを目の当たりにして驚く群衆に対して、ファリサイ派の人々が声を上げました。「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」(24節)。
神の霊を授かったイエスを真っ向から否定し、悪霊の親玉ベルゼブルの仕業だと誹謗中傷したのです。いつも狡猾にイエスを試す彼らとは違い、非論理的で感情的な発言です。とにかく、何でもいいから主イエスの評判を貶めなければ、との嫉妬、憎悪、焦りが表れています。イエスの言うこと為すことすべては福音(グッドニュース)どころか、フェイクニュースだと。

「悪霊の頭ベルゼブル」は、かつて「蠅の王(ベルゼブブ)」と呼ばれ、ユダヤ人は忌み嫌っていました。蠅は、汚物や死骸に群がり、それらに触れた足のまま私たちの食べ物に止まることから皆に嫌われる存在です。しかし、思えば、主イエスという方は、触れてはならない汚れた者と言われ、社会からつまはじきにされ忌み嫌われていた病人や障がいを抱えた人々の上に手を置き、彼らに寄り添った方でありました。「ベルゼブル=蠅の王」は、皮肉にも主イエスという方を実に良く言い表しているのではないでしょうか。

主イエスもまた、「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦される」(31節)と言い、ご自分がベルゼブルと呼ばれることを構わないのです。主イエスは、どんな誹謗中傷も拒まれず、それどころか「それらはすべて赦される」とさえ宣言されるのです。十字架の死の出来事は、まさにその証しでした。あらゆる讒言、暴力、無理解、裏切りの限りを主イエスはその身に引き受けて十字架に死なれました。そして、神はこの十字架の死をもって、この世をただ一度、完全に赦されました。

誤解してはなりませんが、神様は罪を「見逃してくれる」方ではありません。見逃すこと(見て見ぬふりをすること)が赦しではないのです。むしろ神は、決して私たちから目を逸らさないのです。言い換えれば、決して私たちを見捨て、見過ごし、みなしごにはしない神なのです。

私たちを決して見逃さず、目を逸らさない神は、神を忘却して生きるこの世が負うべき罪の責任の一切をイエス・キリストに負わせられました。十字架で主イエスが私たちの贖いとなって下さったこの一点においてのみ、私たちと神様との関係は担保されているのです。この一点のゆえに、神は限りない忍耐と限りない愛をもって世に関わり続けて下さるのです。

さて、主イエスは、ご自分がベルゼブルと呼ばれることは構いませんが、「霊に対する冒涜は赦されない」(31節)と毅然と言われました。つまり、イエスへの冒涜は赦されても、イエスに働く神の霊、イエスを通して表される「傷ついた葦を支え、くすぶる灯心を消さない」神の業そのものへの冒涜は赦されないということです。病む者、貧しい者、悩みを抱えるものが、心に力を得て立ちあがって一歩を踏み出そうする、その神の霊の働きを冒涜することは赦されないのです。

この受難節の日々に、しかと思い起こしたいことは、約2000年前のイエス・キリストの十字架の死の出来事だけではありません。独り子の十字架の死をもって世を赦し、そして愛し極めて下さる神の霊が、今日も、私の中に、また隣人の中に、喜びの中にも悲しみの中にも働いているという事実です。その恵みをお互いに認め合い、尊び合うことです。

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