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シメオンとアンナは非常に信仰深い人で、長い間救い主が与えられることを待ち望んでいました。そのような人たちがイエスと出会ったというのが、今日の物語です。しかし、今日の箇所を読んでいきますと、シメオンとアンナはイエスとの出会いに際して、エルサレム中に救いの到来を告げていくのですが、彼らは一体何によってその救いの確信を得たのかということを疑問に思うのです。

なぜなら、イエスが生まれて間もない時代、イスラエルという国は宗教も政治も全てがローマの完全な支配下にありましたし、その中で国を導いていくはずの指導者たちは、いかにして自分の地位を守るかということだけに熱心でありました。あちこちで戦争や紛争は止むことがなく、国土は荒れ果て、大切な人の命は奪われて、貧しさや飢えに苦しみ、喘ぐようにして人々は生きていました。そのような「救い」からは、ほど遠い時代だったのです。多くの人が望んでいた救いというのは、その世界の劇的な変化でありました。正義があり、飢え、苦しみ、涙、戦争の恐れのない世界、誰もが安心して暮らすことができる世界を救い主がもたらしてくれるのだと考えていたのです。そのような「救い」が全く見当たらない状況に立ちながら、赤子のイエスに出会っただけ、彼らはそれだけで救いの到来を確信するのです。

もう一つ不思議なのは、シメオンとアンナが母親のマリアにだけは、大きな悲しみが訪れる、と伝えたことです。救い主がやって来たということ、それは全ての人にとって喜びのはずなのに、なぜマリアだけはそのような悲しみを告げられるのでしょうか。救いと悲しみ、それは矛盾しているではないか、そのように私たちは思うのですが、聖書は、そうではない、というのです。

救いというのは、私たちの人生の中で全てが満たされているという時に訪れるのではありません。むしろ私たちが、簡単に忘れられないような悲しみと出会った時、心が剣で刺し貫かれるような痛みを抱いた時にこそ訪れるというのです。私たちは、様々な事柄が上手くいっている時は、神様の働きを目にすることができないのです。大抵それらのことが、自分の力によって上手くいっていると思うのです。そこには、本当に真剣になって救いを求める祈りというものは生まれてきませんし、神様が近くにいて私たちを支えてくれていたのだとしても、その業を見いだすことができなくなってしまうのです。知らないうちに自分への過信が生まれ、「これからもそのようにして全てのことを上手くやっていこう」と考えてしまうのです。ところが、私たちの人生には、どれだけ努力を重ねても自分の力が全く及ばない辛い時が訪れるのです。その時、初めて私たちは真剣に神に祈るのです。目に見える強さや力ではなく、弱さや無力さが私たちにもたらす真の強さ。それが救いなのです。金銀ではないけれども、教会が代々に渡って語り繋いできた、本当に私たちに必要なもの。私たちの弱さの中で与えられる神の愛が、私たちの本当の救いなのです。

シメオンがマリアに語った悲しみは、十字架のことです。クリスマスの喜びの中、語られるのは十字架なのです。救い主が訪れたことを私たちはクリスマスに喜んだのですが、なぜその救い主がこの世界に来たのかということに目を向けよ、と聖書が語りかけているのです。 イエス・キリストは、十字架につくために生まれたのです。十字架について死ぬために、愛そうとした私たち人間に裏切られ、殺されるためにこの世界に来て下さったのです。痛みと、苦しみと、恥辱を十字架で引き受けることで、私たちの苦しみを共に苦しんで下さるために、悲しみを共にして下さるために、それほどまでの私たちへの愛を携えて、神は飼い葉桶に身を宿したのです。

シメオンたちは、赤子のイエスの中に「神がその一人子をお与えになったほどに世を愛された」ということを知ったのです。今この時、神の愛が自分に向けられていることを知ったのです。それが彼らの確信した「救い」だったのです。

私たちが全く力の及ばない所に立ったとき、そこで共に生きて下さる神が私たちの元へやって来た。それこそが、シメオンと私たちが見る救いなのです。この年の始まりに、その救いの出来事をもう一度思い起こし、新しい日常の中に、共に歩んで参りましょう。

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