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「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。」「カファルナウム、お前は、天にまで上げられると思っているのか。陰府にまで落とされるのだ!」
名指しされたこれらの町は、どれもガリラヤ地方にありました。ガリラヤの町々は、必ずしも主イエスを快く受け入れたわけではありませんでした。人々は主イエスの不思議な奇跡に驚き、喜びはするものの、まるで打ち上げ花火のように、ぱっと鮮やかに輝いたかと思えば、また暗闇に包まれるようだったのかもしれません。福音を告げ知らせても、打てど、響かず。

まるで捨て台詞のように主は言われます。「お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町々はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたに違いない。」「お前たちのところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったかもしれない。」

しかし、忘れてならないことは、主イエスはこの後も、ガリラヤの町々で宣教し続けるのです。主イエスは、天の父にこう祈りました。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢いものには隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです。父よ、これは御心に適うことでした。」(25節)
「そうです、これは御心に適うことでした」との言葉には、主イエスの<気付き>があります。悔い改めて神に立ち返ろうとしないこの頑なな現実、そこに今自分が遣わされているということにこそ、天の父の御心があるという気付きです。

主イエスは、今、ここガリラヤの地に自分が遣わされているという現実の中で、「なぜ理解しないのか」という思いから解き放たれ、「理解されるより理解し、愛されるよりも愛すること」(フランチェスコ平和の祈り)を選び取る決意を新たにされました。

また、こうも祈っています。「すべてのことは父から私に任されています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」(27節)。
この言葉には、「わたしが彼らを理解し、わたしが彼らに伝えようとしなければ、どうして彼らが父なる神に出会うことができるだろうか」と、ご自分の使命の再確認が現れているのです。

主イエスの祈りは、28節で人々への呼び掛けの言葉に変わっています。「疲れた者、重荷を負う者はだれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」(28節)。当時の人々が負わされていた重荷、それは律法の数々の戒律です。「こうあらねばならぬ」と言われ、その上、誰も指一本貸してくれない、そんな現実の中で、裁かれ、遠ざけられ、生きることに疲れていたのです。私たちもまた、人からの採点や評価に振り回され、競争を強いられます。生きることに疲れ、自分自身の存在意義、価値が分からなくなるという苦しみを抱えている人がなんと多いことでしょう。見えない抑圧の現実の中で、ひどく呻き、窒息してしまいそうになるのです。

まさにそこで、主イエスは切実に呼び求めておられます。「私のもとに来なさい」「私の軛(くびき)を負いなさい」と。
軛は、例えば二頭の牛同士を繋ぎ合わせ進ませるための道具です。そうして荷を運んだりします。軛があってこそ重荷を運べるのです。数々の人生の重荷は、軛なしには背負えないのです。その軛とは、キリストに示された福音です。主イエスは軛の片方を担いで、そしてもう片方を、このわたしが担ぐのを待っておられます。「あなたが来なければ始まらないのだ」といわんばかりに。

ガリラヤの人々への厳しい叱責の後で、しかし、「ここにも天の父の御心があるのだ!」ということを見出された主イエスは、同じく私たちをも、待っておられます。

「私の軛は負いやすい」、「安らぎを得られる」と約束されるのは、軛を主イエスが共にしてつながって下さっているからです。この私を諦めずに必要として下さっている。この事実を信じつつ、この道を進めば良いのだと踏み出す時、その足取りは軽くなっていることに気付くことができます。

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