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主イエスはご自分の死を前にして、心から愛し抜かれた弟子たちのために、そして、主イエスを信じる人々のために祈られました。それは、時を超えて、私たちにもむけられているものであります。その内容は、弟子たちの、そして私たちの救いについて、永遠の命を与えて下さったということが分かります。何の罪もない主イエスが、これから十字架へむかわれていくことを思うとき、主イエスが、このように祈られたことは、人として一番の悲しみである死という現実、不条理があること、自分の力ではどうしようもないこと、それらにどのように向き合っていかれたかということを知ることができます。

「神がおられるのなら、なぜあのような悲惨が起こるのか。」と私たちは思います。けれどもそれは、私たちが「願いをかなえて下さる神」を前提として生きているからではないかと思うのです。しかし、十字架のイエス・キリストによって現わされた神は、あの絶望的な苦難を自分の身に起こることとして引き受け、神などいないと思える現実を生き抜くことを示されています。信仰とは、苦難を取り除くためのものではなく、神は我らと共にいましたもうことを信じ、苦難に満ちた人生を生き抜いていく力です。

十字架の上で主イエスは、「わが神、わが神、どうして私を見捨てたのですか」と叫ばれました。それは私たち自身の問いでもあります。主イエスは、「なぜ私が」という問いの中に身を置かれました。不幸な出来事そのものも辛いことですが、なぜそのようなことが私に起こったのかという答えが分からないこと、そのものが苦難でもあります。しかし、その苦難を無理やりに意味をつけて、問題を放棄し、絶望するにはまだ早いということを主イエスの姿に現わされています。主イエスが「この杯を取り除いてください。しかし、御心のままに」と祈ったのは、苦難に対する自己勝手な解釈ではなく、神様に委ね切ったということです。その中で積極的に生きていくことを示されているのだと思うのです。

なぜか分からない状態は、変わらないかもしれません。「真っ暗な暗闇の中」にいるようです。それは主イエスの十字架の現実そのものであります。そこには、驚くべき奇跡は起こらず、期待した神の姿をとても見出すことはできません。しかし、この十字架こそが神の姿であると聖書は示しています。なぜならば、十字架の暗闇の中にあっても必ず復活の希望の光があることを私たちは見出すことができるからです。光は暗闇の中で輝いているからです。暗闇でこそ、光を見ることができる。決して十字架の死が終わりではない、復活の朝がやってくるのです。

主イエスは、愛する弟子たちのために、時を超えて私たちのために祈って下さいました。そして、「永遠の命とは、唯一まことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」と祈られました。永遠の命とは、神とイエス・キリストを知ること。それは、主イエスの命を私たちも生きるということです。主イエスがされたように、私たちは、様々な困難にあったとき、まず祈ることができます。そして、変えられないことを受け入れ、起こっている出来事を神様の御心に委ねてしまう。みこころのままに、と。最後には復活の光の中に希望を見出し、神様が私たちと共にいて下さると確信し、信仰によって歩みだす。それが主イエスの祈りを通して私たちに示されたことです。私たちの主イエス・キリストは、私たちが生きるときにも、死ぬときにも、信頼すべき方である、私たちの命をかけることのできる、委ねることができる方です。その方を知って永遠の命を生かされていることを覚えながら、今日から始まる受難週をキリストを思いつつ歩みたいと思います。

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