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今日の箇所には、生まれつき足の不自由な男性が登場します。年齢は40歳ぐらい、当時の平均寿命で考えますともう高齢者です。神殿の門の前で、というのは暗に、この人は神殿には入れなかったということを意味していて、彼は障害のために神の前に出るには相応しくないとして、門の前に座らされていたのです。ユダヤ人にとって、礼拝に参加することは正に人生の中心にあることでしたから、礼拝に出席をすることができない。それは、その人が社会の一員として認められないということを意味しました。

社会から阻害され、友達もいない。恐らく家族からも見放された状態の中で、生まれてからずっと孤独に生きてきた。その深い悲しみや、寂しさ、孤独の思いが、今日の物語の背景になっているのです。孤独というものは、人の心も体も蝕んでいくのです。孤独から身を守るためには、心を閉ざすしかありません。様々な出来事に対しても、無表情で、無感動で、無気力に、この足の不自由な人は、固く自分の殻の中に閉じこもりながら、40年間を生きてきたのです。

そんな背景を持った人とペトロたちが出会うのが今日の物語です。この出会いの場面は、一層寂しさを思わせる所だと思います。ペトロたちに話しかけられた時、彼は、「何かもらえると思って二人を見つめていた」とあります。つまり、この人と、他者との関係性というのは、「お金を与える、与えられる」という関係でしかないのです。しかし、この悲しい描写はこの後のペトロの言葉を一際引き立たせているのです。

「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」

この言葉によって、40年間立ち上がることが出来なかった彼の足は瞬く間に癒やされ、立ち上がり、歩き出すことができるようになったのです。彼は、閉じこもっていた硬い殻を打ち破って神殿の境内に入り、心から神を賛美するものへと変えられたのです。驚くような奇跡、信じられないような転換が、「イエス・キリストの名によって」起こった。それが、今日の聖書の物語なのです。

私たちは、五感を通して確かめられるものなら信じられる。そういうものにこそ価値があると、知らず知らずのうちに思ってしまっているところが誰にでもあります。この足の不自由な人が求めていた金や銀というものは、そのようなこの世界の形あるものの象徴であり、誰の目にも鮮やかに写り、これさえあれば、生きていくことができる。私たちにそう思わせる力が、金や銀にはあるのです。

しかしペトロは、「金や銀ではない」というのです。目に見える財産よりも、本当にあなたを生かして、いのちの輝き、生きていてよかった、そう思えるような歓びを取り戻すのは、「イエス・キリストの名前なのだ」ペトロはそう高らかに宣言するのです。

名前によって、人が立ち上がる。というのは現代の私たちには馴染みのないことかもしれません。けれども、古代の世界において、名前とは、持ち主の本質や力を表すと考えられていました。イエス・キリストの本質。それを、最もわかりやすく表す言葉、それは、「愛」であります。神は愛です。受け手の条件も何も必要としない。決して変わることがない、真実の愛。それが、イエス・キリストの本質であり、今日の物語の中で、あの足の不自由な人を立ち上がらせる力となったのです。

イエスの愛は、誰にも愛されることなく、必要とされず、心を閉ざして生きていた足の不自由な人を、癒やし、立ち上がらせ、心から神を賛美する人へと変えていきました。私たちがどんな辛さの中に立っていたとしても、忘れることができないような悲しみに包まれたとしても、この世界の中で自分は一人ぼっちだ、そう思うような孤独を感じたとしても、イエスの愛はそこに働いて、そこから私たちを立ち上がらせてくれるのです。私たちがどんなに打ちのめされたとしても、イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩みだし、もう一度神を賛美するものとして生きていくことができるのです。

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