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>札幌北光教会/トップ  >牧師紹介・説教  >神の招きを断るのか


イエスは一つのたとえ話をお話になりました。宴会、しかも盛大な宴会の話しです。

当時は宴会を催すときに事前に予告をして、そして準備が整った当日に、もう一度お招きするという習慣になっていたようです。その習慣に基づいて、僕が送られて、「用意が整ったので、おいでください」と招くのです。

ところが、招かれた人たちは、次々と「畑を買ったので見に行かねばなりません」「牛を飼ったので、調べに行かねばなりません」「妻を迎えたばかりで、いくことができません」と断ったというのです。

そのことを主人に報告をすると、主人は怒ってこう言います。「街の広場で、貧しい人や障がいのある人を招いてきなさい。」それでも席があまると「道を歩いている人誰でもいいから無理にでも連れて来なさい」と言った、というたとえ話です。

さて、この話はイエスがエルサレムに向かう途中の話しで、あるファリサイ派の人の家に招待されたときに語られました。招待主は「ファリサイ派で議員」なのです。つまり超エリート、日本の時代劇ふうに表現すると村の名主の家に招待されたのです。そこにはゲストがいて、そしてその議員の家をとりまいている「招待されなかった人々」がいるのです。そして、その外側に村の交わりにも加えてもらえない「障がいを持った人」がいた…そういう情景が前提とされているのです。

主人は用意を調えて、あらかじめ知らせておいた人々を招待したのですが、その人たちは、みんな「事情があっていけなくなった」とキャンセルするのです。その理由はあるのですが、それはどうしてもその時でなければならないものではありません。つまり、ここで断っているのは、「行けなくなった」のではなくて、「行くつもりはない」という奥底の意識があるのです。だから主人は怒ったのです。

「神と共に食事をする人は幸福です」と叫ぶ人がいて、今日の話が始まりました。叫んだ人は食事に招かれた人たちで、裕福で、行いが正しい人だったのでしょう。そういう自分たちこそが神の国の食事にふさわしいのだという自慢や自負が含まれているのです。

それに対してイエスは、あなたたちの実像は「神の宴会への招待を断っているのと同じだ」と指摘したのです。それをどれほど神が悲しみ、どれほどそれを怒っておられるか、と語ったのです。

イエスの宴会への招きはいつも変わりません。「あなたの敵を愛しなさい」なのです。「あなたも許されているのだから、その人のことを許しなさい。そしてその人を呪うのではなくて、その人のために祝福を祈りなさい」なのです。実は私たちの生き様は、いろんな正当だと思えるような理由をつけて、それを拒否しているのではないでしょうか。 

主人は、人々から宴会に招かれる資格がないと思われていた人たちを宴会に招待することにするのです。「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」は罪があるとして、人々の交わりから遮断されていた人でした。当然、宴会には相応しくないと判断されて、招待もされていなかった人です。その人たちを連れてきたのです。さらに、それでも席が余っていることを知ると、道を歩いている人を強引に宴会に招いたのです。この人たちも宴会に相応しくないと思われていた人たちでした。

つまり、ここでの行動の主は、客ではなくて主人です。主人は無理やり引っ張ってくるのです。その人たちの資格や意志は関係ないのです。

「無理やりに」とは、それほどの愛に溢れてということなのです。私たち人間を救おうとする神の愛が、無理にでも宴会へ連れていこうとする姿として描かれているのです。

私たちの救い、それはこの強烈な神の愛にあるのです。

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