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十戒には「主の名をみだりに唱えてはならない」とあります。イスラエルの民は、これに過敏に反応し、「ヤーウェ」と呼ばれていたであろう神の名を直接口に出すことをせず、代わりの呼名、例えば「アドナイ」を用いました。しかし、掟の本質は、神の名を「みだりに」唱えることです。自分の利益のため、正当化のため、人の心を支配するために、神の名を便利屋のように濫用することを戒めるのです。その名が語られる時に、人は己が被造物であるということを深く弁えねばならないのです。

「『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか。』というだろう。その時、わたしはきっぱりこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」
「不法」、天の国に属すべきものが、そこに属さない法外な生き方をしているとするならば、主の名を空しくしてしまっているという点においてです。
どんなに人の驚く奇跡を行えたとしても、そこで主ではなく自分の誉れを求める心があるならば、それは主の名を妄りに騙っていることになるでしょう。あるいは、「主よ、主よ」と呼び求めている内に、「こんなに真剣に主を呼び求めるわたしは救われて当然だ」とか、「神が愛ならば、こうしてくれて当然ではないか」というのも、神を自分の都合の良い偶像に貶める思い上がりでしょう。わたしたちは、普段、なんと安易に神の御心、神の導きと言ってしまいやすい者でしょう。

主イエスは、短刀直入に「御心を行うこと」を求めます。しかし、私たちには、肝心のその御心が分からなくなるのです。「これは本当に御心であるか」を常に主に問い、また主から問われながら歩まなければならない者なのです。信仰の旅は、「これが御心だ」と疑いなしにひたすら生きていくことではありません。それは時として、信仰とは程遠い、とんでもない思い上がり、思い込みになってしまう危うさがあります。そうではなく、神様から絶対的に良しとされて愛されている平安の中で、私たちは求め、探し、叩き、神に問い、また問われ、右往左往しながら生きていくのです。
祈りは、単発ではなく、人生全体を通しての一つの業です。繰り返し祈り、「御心は何だろうか」と問い問われ、時に自分本位の祈りとなり、また時に心から誰かのために切に祈り、そうして本当に祈るべきところに辿り着いていくのです。すなわち、「御心こそが為されますように」と、主への信頼と希望と愛をもって委ねる祈りです。その祈りへと向かって日々、神と格闘する(創世記32章23以下)ことが求められているのです。そのようにして日々、神と向き合って生きる関係がイエス・キリストによって与えられているということ自体が、既に主の御心なのだと言えるでしょう。

この箇所は、「山上の説教」の最後のところです。数週間山上の説教を説き証して参りました。「あなたがたは世の光である、地の塩である」「空の鳥を見よ、野の花を見よ、あなたがたはなおさら愛されているではないか。思い悩むな」「求めなさい、そうすれば与えられる。」これらの言葉はいずれも、主なる神があなたをどれほど尊び、愛しておられるかという事実についての言葉でした。神様は、その愛を尽し、すべてを支配し、その御心を行われるのです。そして、最後に主イエスが群衆に告げられたのは、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う」ことでした。それは、これら語られてきた言葉を人生の中に響かせながら生きていくということ、これらの言葉を土台に据えて生きていくということです。その響きは決して消え去らない、その土台は決して流されないのです。
「山が移り、丘が揺らぐことがあろうとも、わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはない」(イザヤ書54章10節)その約束を土台として、私たちは生きていくのです。

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