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主イエスは、その宣教の業を始めるにあたり、洗礼者ヨハネから洗礼を受けようとされました。ヨハネの授けていた洗礼とは、罪を告白し、悔い改めてキリストの到来に備えることが目的でしたので、キリストご自身の受洗志願という思いがけない自体に、彼は困惑を隠せませんでした。その戸惑いはもっともで、「釈迦に説法」ならぬ、「イエスに洗礼」だなんて、全くおかしな話ではないですか。

洗礼を受けることに劣らず、授けることもまた非常に緊張します。人間の思いなど遥かに超えた神の御業の深さ、神秘とも言うべき圧倒的な愛の大きさに触れると、恐れや、戸惑いが心に生じます。「今ここで、この人の全存在の救いが宣言される」、これを司る者として自分が用いられることの喜びと、それ以上に畏れを覚えます。「こんな自分が授けて良いのだろうか」との戸惑いが生じます。

受洗される方は、そこで救いが告げられ、永遠の命が約束されるのですが、授ける側としては、なんとも寿命が縮まりそうな思いです。ましてや、主イエスから受洗志願を受けたヨハネは、どれほど戸惑ったことでしょう。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが私のところへ来られたのですか」(14節)。

しかし、主イエスは言われました。「今は、止めないでほしい。
正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」。つまり、この洗礼の是非をあなた個人の考えに基づいて判断するのではなく、神の御心にとって正しく、相応しい業として行ってほしいというのです。「受洗」する者、「授洗」する者、両者にとって大切なことは、ただそこで神の御心が明らかにされ、全うされるということなのです。しかし、では、主イエスの受洗という出来事の何か、神の御心に相応しい、正しい出来事なのでしょうか。それは、救い主である方が、罪の告白と悔い改めの洗礼を受け、私たちと同じ罪人の列に加わって下さったということです。

主イエスにとって、洗礼を受けることは、決して洗い清められることではなく、むしろ反対でした。主イエスは、自分の手を汚すことなく、この世界を救って下さったのではありません。自ら一人の人間となり、哀しみや破れを抱えた人間となって生き抜かれた方です。クリスマスによく耳にする「インマヌエル(神は我々と共におられる)」という言葉は、それ自体とても美しい響きで、好ましい言葉のようですが、その実態というものは正反対です。主イエスは、まるで深い沼地に飛び込んで来られた方です。神を見失い、疑い、エゴにまみれ、都合のよい神を求めては、日々思い煩いながら生きている深い沼地のような罪の現実の中で、その私たちを泥んこになりながら支えて下さる、この罪人の現実を自分のものとして担う方として来られました。

洗礼者ヨハネという人は、人々に厳しく悔い改めを迫りました。
「その方は聖霊と火であなたたちに洗礼を授ける。そして、手に箕(み)を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる!」(11節)。

ヨハネは、人々が御心にふさわしく生きる者となることを強烈に求めたのです。しかし、それで本当に人がすっかり変わることができるのならば、もはや救い主など必要ないのです。自分では決して変わることのできない私たちであるからこそ、神は、神であることを捨てて、わたしたちと同じ罪人の列に加わって下さったのです。

主イエスが洗礼を受けた時、天が開き、神の霊が鳩のように降りてきて、「これはわたしの愛する子、私の心に適う者」という声が聞こえた、と描写されています(17節)。この言葉は、主イエスの耳元でこっそり伝えられた言葉ではなく、皆が耳にすることのできた天から言葉でした。私たちもまた神に愛され、御心に適う子とされているのです。

「今は止めないで欲しい」、主の御業は止まることなく、今年もわたしたちの中に働き続けます。私たちの思いに基づいてこれを妨げてしまうのではなく、ただ神の真実な御心がなされることをこそ信じつつ、主の業が現わされる土の器として、愛された神の子として、日々の務めを担っていくものでありたいと思います。

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