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「その日、その時から、あなたがたは「私の名によって願うことになる」。わたしがあなたがたのために父に願ってあげるとは言わない。父ご自身があなたがたを愛しておられるのである。」(26節)キリスト者は、どんな祈りでも「主イエス・キリストの名によって」祈ります。それは、「このような祈りは自分名義ではきっと効き目がありませんから、イエス様のお名前でお聴き下さい」と名義を変える小手先のテクニックなのでしょうか。

私たちは自分の名を隠さなくても、神に祈ることができるのです。そこで大切なことは、そもそも私のようなものが神である方に祈ることができるという関係そのものが、いかにして成り立っているのかということです。それはただイエス・キリストの十字架の死によるのだということを私たちは祈りの度に思い起こす必要があるのです。つたない祈りしかできないかもしれません。しかし、そのままに祈れば良いのです。主イエスこの方のゆえに神はその祈りを豊かに聴き入れて下さるのです。

かつて代務をしていたハンセン病療養所内に立つ光明園家族教会のNさんの葬儀を執り行いました。両親と2年の期限付きという約束で沖縄から夢を携えて本土へ渡って来たNさんは、ハンセン病を患い邑久光明園に入園され、そこで生涯を終えられました。人生を呪い、真っ暗な闇を意味もなく漂っているような日々、苦しみの挙句夜中に起き上がり、「神様どうして!」と叫んだそうです。そしてこの叫びから、Nさんの祈りの道が開かれていきました。教会の礼拝と祈祷会に会堂管理人としての責任上出席しながら、やがて十字架に示された神の愛に飲み込まれたのでした。人生を呪い、神に訴える自分を抱き締める神の愛を知りました。

これから咲き開こうとしていた自分の人生は断ち切られ、奪われてしまったのではないか、自分という存在は忘れられているのではないか、そんな呻きはしかし神への感謝となっていきました。心からの賛美と笑顔が生まれ、主イエスの名によって祈り、生きる希望が生まれてきました。「自分は忘れられているのではない、今日自分はここに置かれ生かされているのだ」という使命を見出して、永年、目の不自由な牧師の身の回りのお世話をし、教会の働きをにこやかに担われたことは奇跡と呼べるでしょう。国の強制隔離政策が正しかったはずがありません。しかしNさんにとっては、たとえ健康で自由な生活があったとしても、神の愛に出会うことがなければ、それは全く空しいものであったのです。富に名誉に健康に、と多様なスパイスがいくら人生に加えられたとしても、神の愛という塩がなければ味気ないのです。

Nさんの愛誦聖句は、「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それは私たちの信仰です」(ヨハネの手紙T 5章4〜5節)。世に打ち勝つ信仰、それは人生の苦悩に努力と辛抱によって強く立ち向かい立派に克服するとか、苦しみを痛くも痒くも思わなくなるということではありません。むしろ、自分ではどうすることもできない苦悩が現実として襲う中で、そこで決して手を放すことなくこの私を愛によって捉えておられる神に気付かされながら、拙くとも今日を精一杯に生き抜いていくこと、それが世に打ち勝つ信仰です。

イエス・キリストは、忘れられない言葉を残されました。「あなたがたが(中略)私をひとりきりにする時がくる。しかしわたしは一人ではない。父が共にいて下さるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」

そういって、主イエスは十字架で死なれました。人々に罵られながら十字架の上で絶命することのどこが勝利か、敗北でしかない!と思わされます。しかし、主イエスこそ、人生の苦悩、悲惨をなめ尽された方です。いとも簡単に苦難に打ち勝ったのではなく、その苦しみを苦しみ抜き、痛みを痛み抜き、ご自分の使命を生き抜いた方です。その姿にこそ勝利があるのです。そしてそれが勝利である証しこそ復活です。復活が示したこと、それは私たちを支配するものは、苦しみや悲しみではなく、神の愛であるということです。苦しみや悲しみを生き抜いていくその歩みはひとりきりではないのです。父が共にいて下さるのです(32節)。死をもってしてもこの愛からわたしたちを引き離すことはできないのです。この揺るがぬ平和(33節)を信じる時、そこにあるのは決して敗北でなく、勝利です。

「わたしは既に世に勝っている」それは主イエスの、そして私たちの宣言です。決してみなしごにはしないと約束された主の愛を信じ、この愛を示して下さった主イエスの名を拠り所としながら神にありのままに祈りつつ、今日、自分の置かれている日を精一杯生き抜いていくものでありたいと思うのです。

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