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10章1節から始まった72人の派遣物語の最後のまとめの箇所です。イエスは何を喜んで下さったのか、何に喜びがあふれるのかをみていきましょう。

21節は有名な言葉のひとつではありますが、そのまま読むと、真理の教えを当時のエリートである「知恵ある人、賢い人」に示すのではなくて、当時は神について子どもくらいの知識しか持ち合わせないと思われていた人たちに示して下さったことを喜んでいるという風にとってしまいます。そんなにイエスは偏狭な人間だったのでしょうか。

けれども、このことばを見方を変えてみたら、まったくニュアンスが変わってきます。そのポイントは「自分もまた幼子のような存在ではないか」と気づくことです。

この世界を生きている自分は、十分な力を持っているわけではないという現実に気づくことがあります。

実は、私たちの日常は、気づかずして多くの人に支えられてあるのです。そして、気づかないうちに神に支えられて生きているのです。私たちが持っているものは貧しいのですが、多くの人に支えられて、今を生きているのです。その意味でまさにわたしは「幼子のような」存在だといえるのです。

そう思ってもう一度、この聖書を読んでみたら、冒頭の「イエスは喜びにあふれた」は、知識や知恵や能力や力を持っている人ではなくて、幼子のような貧しいものしかもっていないこの人たちが、神と出会えたということを、喜びあふれて下さっているということになるのです。

そして、22節を読んでいくと、神のことを正しく知っているのはイエスだけであり、イエスが「示そうと思うもの」に示しているのだというのです。つまり、イエスは、貧しいあなたを選んでいるというのです。

力があり、知識があり、能力があるあなたを選んでいるのではありません。むしろ資質的にも、能力的にも足りないところがいっぱいある幼子のようなあなたをあえて選び、神と出会わせてくださっている。イエスは、それが神の御心にかなうことだったと言って喜びにあふれているのです。

わたしが牧師としてみなさんが学生として、あるいは社会人として、あるいは母として、あるいは父として、生きる時に、自信満々に胸を張ることができる人は多くないでしょう。むしろ、自分の力の無さや、至らなさを痛感しなければならない日々が多いのではないでしょうか。

けれども、そのところで、神を見上げながら、神に支えられて生きていることを知るとき、イエスはそのことを喜びにあふれて、讃美をして、感謝しているというのです。

今、私たちはそういうメシアを見ているのです。私たちを喜んでくださる救い主を見ているのです。

それは、アブラハムが望み、ダビデが望み、イザヤが望み、エレミヤが望んだことでした。まさに私たちはそれを目の当たりにしているのです。イエス・キリストと出会うということはそういうことなのです。

私はこの個所はルカがキリストと共に歩んできて、その半生を振り返って、後世の教会の人々に向けて次のようなメッセージを語っているのだと思います。

「わたしはなんと幸福だろうか。こんなわたしをイエスは選んでくださり、神と出会わせてくださった。そして、わたしが神を信じるものになったこと、信じつつ生涯を歩んでいることを、イエスは喜びにあふれて感謝してくださるという。救い主が、こんな私を見て、喜びにあふれているというのは、なんと幸いなことだろうか」

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