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>札幌北光教会/トップ  >牧師紹介・説教  >果たして十字架を負えるのか


カトリックの教会にはコーナーのようにイエスの受難から十字架に至る聖画が飾られています。レントに入ると、その一つひとつの所に立ち止まりつつ、祈るというときを持つのだそうで、それをスターチオというのだそうです。このスターチオからステーション、つまり駅ということばができたそうです。

立ち止まり、しばしイエスの生涯を思い巡らす…それが受難節の意味なのです。イースターまでの毎週、一度、立ち止まってイエスを思い起こす…つまり、祈ることからはじめていきましょう。

今日の物語「イエスが祈っている」ところからはじまります。

イエスが祈るときには、その後に重要な出来事が起こります。今日の出来事が、弟子たちにとっても、後の教会にとっても大きな意味があるということなのです。イエスは弟子たちに「群衆は、私のことを何者だと言っているか」と尋ね、続いて弟子たちに「あなたがたは私を何者だと言うのか」と尋ねます。イエスを誰と告白するのか、という問いです。

この問いに対して、ペトロが「神からのメシア(=キリスト)です」と答えました。これはすばらしい答えですが、しかしイエスはペテロの言葉がすべてを理解した上の言葉ではないことを知っています。そこでイエスは救い主について語り出すのです。つまり、イエスが祈りつつ行ったことというのは、真のキリストの姿を弟子たちに示すことだったのです。

ペトロたちのメシア像は、イスラエルに栄光を戻すものであり、世界に冠たるイスラエルを復興する存在だというものでした。ところが、イエスは「救い主は、苦しみを受け、排斥され、殺される」といったのです。

イエスは栄光的な存在ではなく、「私たちと共に苦難の内に住みたもう方」という新たなキリスト像を示したのです。

そういうキリストを示して、イエスは弟子たちに「わたしについて来たいと思うものは、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」と言われました。

果たして、私たちにそんなことが出来るでしょうか。そんなことを求められたら、私たちは誰もイエスの弟子ではなくなるのではないでしょうか。さらに、イエスは「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」と続けます。これもまた私たちに本当に困難なことだと実感します。

ここでもう一度、はじめてルカによる福音書を読んだつもりで今日の箇所を読み直してみると、新しい視点が開かれてきます。イエスは弟子たちに「殺される」と語りましたが。「十字架で殺される」とは語っていないのです。その後で、弟子たちに「十字架を背負え」と仰ったのです。弟子たちにすれば、「十字架」という衝撃的な言葉が突然出ててたということです。

そして、十字架刑は重要な政治犯のみに適用されたもので、自分たちとイエスからはかけ離れた事柄のように思っていたに違いないのです。だから、なんのことかわからずに、このイエスの言葉を聞いていたに違いありません。

けれども、このあと、弟子たちはイエスが十字架を背負うことを目の当たりにするのです。自分が見捨て、自分が裏切り、自分が逃げ出した、イエスが十字架を背負っているのです。その十字架を背負ったイエスを見たときに、弟子たちはイエスが「自分を捨てて、十字架を背負え」と仰ったこの言葉を思い起こしたにちがいありません。

その時、弟子たちにはイエスが背負っている十字架は、「あれは自分が背負うべきものだったのだ」と痛感したのではないのでしょうか。私たちの貧しさや悲しさや弱さ…その故に生じる歪みや切なさや痛みや涙…それらのすべてをイエスが背負ってくれているのです。救い主は、わたしの担うべき十字架を担って下さっているのです。

十字架を負えと命じた方が、実は私の十字架を背負ってくださったのです。私たちが担い得ない十字架をイエスは背負って下さっているのです。私たちの貧しさの中に、キリストは存在します。そのイエスを見上げるのです。それがステーション、立ち止まること、立ち止まって祈ることの意味です。わたしの背負うべき十字架を担って下さっているイエスを思いながら、レントの日々をすごしましょう。

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