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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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預言者エゼキエルは神様に言われて、両手に持った2本の棒の端と端を合わせました。棒と棒のつなぎ目は、エゼキエルの手の中に隠れて、まるで1本の棒のようになりました。神様は言います、エゼキエルの謎の行動を見たイスラエルの民は、必ず行動の意味を聞いてくると。「木の棒を持って何をしているのか。その行為はあなたにとって何の意味があるのか」と。その際にはエゼキエル、次のように答えなさい、と神様は告げます。「これら2本の棒には、あなたがたの名前が刻まれている。これら何の変哲もない木の棒は、あなたたち自身なのだ。バラバラだった人々を神様はひとつにする」。イスラエルの民は、だれからも気にかけられることがない木の棒のように、弱く空しくされた人々でした。その人々に向かってエゼキエルは、あなたたちをこそ、神様は選び取ってくださると宣言します。このエゼキエルの行為は、尋ねる人(イスラエルの民)こそが象徴行為の対象でした。イスラエルの民が「エゼキエル、あなたにとって何を意味するのか」と尋ねるとき、実はエゼキエルの行動は、神様があなた達(イスラエルの民)のためにしようとしていることを意味していると、伝えました。神様がさせたエゼキエルの行為は、エゼキエル一人だけに意味ある行為ではなく、イスラエルの民すべてに意味ある象徴行為でした。自分には関係ないと思っていたことが、実は自分もまた神様の御心の当事者であることを気づかせました。神様は、私をも救いの計画に入れてくれているという気づきを示して下さっているのでした。

このエゼキエルの行為は、イスラエルの民にだけ示されていました。それでは、それ以外の人々は、本当に関係の無い人になってしまうのでしょうか。私は、違うと思います。札幌北光教会に集まっている私たちも、2本の木のもとで一つにされています。十字架がそうです。2本の角材が組み合わさって、一つになっているこの十字架を中心として、私たちは集まっています。というよりむしろ、「集められている」というほうが正確でしょう。

十字架は、処刑の道具でした。十字架は、イエス様が生きていた時代のローマ帝国で行われていた、最も罪の重い人に下される処刑に使われた道具です。そのような処刑道具を、なぜ教会が大きくかかげているのか。それは言うまでも無く、救い主であるイエス様が十字架刑によって生涯を終えたからです。エゼキエルは、2本の木の棒にイスラエルの民の名を書きました。しかし、イエス様がはり付けられた十字架に書かれていたのは、イエス様の犯したとされる犯罪です。そこには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という名前だけがありました。十字架刑を見に来た人々は、様々な気持ちを持っていました。神様から選ばれた特別な存在であるはずの救い主が、力なく死に近づいている様子を面白がっている人々。教えについて行けなくなって最終的にはイエス様のもとを去った元弟子たち。そして、逮捕されたイエス様を助けようにも助けられず、黙って見ていることしか出来ない弟子たちがいました。様々な背景を持った人々が、イエス様の十字架にかかった姿を取り囲んでいました。最も惨めな姿で死刑に処せられているイエス様は、その場にいた誰の目にも、神様から完全に見放された人に映ったことでしょう。彼等はみんな、様々な理由で十字架に架けられているイエス様を見に来ていたつもりでした。しかし実は、この自分の意志で見に来たと思っているところが、神様の招きであったのです。イエス様の悲惨な姿にこそ、神様の救いの計画は完全に示されています。十字架は、縦の部分に頭から足までを固定し、横の木に両腕を広げて固定します。神様は、様々な背景を持ってイエス様を見に来た人々を、抱きしめようとされたのではないでしょうか。十字架の横木に固定させるために広げさせられたイエス様の両腕は、イエス様の視点から見れば、自分の処刑される姿を見に集まった人たちを抱きしめるために広げた両腕ではないのだろうかと。イエス様が死の間際に叫んだ言葉、「わが神、わが神、どうして私を見捨てたのですか」という言葉には、イエス様が悲惨な最期を迎えたことを伝えています。しかしそれと同時に神様は、人間が何度も神様を裏切り、背く生き方をして神様を傷つけようとも、計り知れないほど大きな愛で包もうとしていたことも伝えているのでは無いでしょうか。

処刑道具でしか無かった十字架は、今や救い主イエスによって一つとされる神の民の証しです。さらにイエス様の十字架上の死は、過去に起こっただけで、今は関係ないということではありません。なぜなら、イエス様は死の中から復活したからです。十字架から解き放たれたイエス様はこの瞬間にも、私たちの中心にいてくださっています。イエス様の自由になった両腕は、すべてのひとびとを包み込む、神様の抱擁です。神様の招きは、様々な形で表れます。そしてそれに応える私たち人間の都合も様々です。しかし、その招きへの応答は、神様が私の人生にも深く深く関わっていることに気づく始まりです。その始まりが、これからの人生の歩みを豊かにするきっかけになりますように。

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