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場面は徴税人や罪人がイエスの元に集まってきているという情景です。「皆」というのは、大勢ということでしょう。そこで食事が始まりました。ユダヤ教の律法では、徴税人は罪人に等しい存在で、そして罪人と交わる人間もまた罪によって汚れた存在になると考えられていましたので、ファリサイ派の人間や律法学者は、イエスに対して不平を言い始めます。

「不平を言いだした」という表現は、ファリサイ派や律法学者はイエスを全否定しようとしているのではなく、「何故自分たちではなく、こんな罪人や徴税人を選んでいるのか」と文句を言っているのです。

それほどイエスはこの食事を嬉しそうにしていたに違いありません。イエスは「正しい人」ではなく、「この人たちを『徴税人』『罪人』こそ、喜ぶ」と言うのです。この人たちとはどんな人たちか。そしてそれはどれほどの喜びなのか、そのことを伝えるために、イエスは以下に3つのたとえ話をされています。私たちも今週と来週にわたって、神は何を喜ばれるのか、そしてどれほど喜ばれるのかということを学んでいきます。

さて、今日は失われた一匹の羊のたとえ話です。

ある人がいます。彼は百匹の羊を飼っています。その中の一匹を見失ってしまいました。するとどうするでしょうか。普通なら、一匹を見捨てて99匹を選ぶに違いありません。野原に99匹を残して、一匹を探している間にその99匹を盗まれたり、野獣に襲われたりしたら、元も子もありません。涙をのんで一匹を見捨てるのではないでしょうか。

けれどもイエスのたとえ話は、99匹をおいて見失われた一匹を探しに行くという話しになります。しかも、この人は、その失われた者、破滅に追い込まれている人を「見つけ出すまで、探し回る」というのです。さらに、この「見失う」という言葉は単に「見つからない」という言葉にとどまらないのです。「破壊された」「殺される」という意味まで含まれているのです。つまり、この言葉には、決定的な破滅状態に陥った人間のことがイメージされているのです。

執念を感じさせるほどのこのたとえには、破滅状態に陥った存在に対する深く強い神の愛が語られているのです。

この物語は自分が迷ってしまった1匹の羊の立場になったときに、本当の意味が判るのです。破滅状態に陥って、死ぬような存在になってしまった自分のために、神が疲れることも厭わずに探し求め、そして見出してくれるのです。それはどんなに大きな喜びでしょうか。

同志社の創設者であった新島襄は、同志社の草創期に、自分が外遊している間に退学者が出てしまったことに対して、こう言いました。

「ほんとうに彼らのためには涙を流さずにはいられない。彼らは真の道を聞き真の学問をしていた人であったが、ついに退学させられることになった。諸君よ、人ひとりは大切である。ひとりは大切である。」

退学してしまった生徒のことを思って涙をし、教育とは「一人を大切にすることだ」と言ったのです。そして、この「一人を大切にする」というのはこのキリストの言葉から出た思想なのです。

一人の大切さ、わたしたちの社会はそのことを見失っているのではないかと思います。合理的で、効率的な社会・・・とても良いように思いますが、言い換えれば弱い一人を切り捨てる社会だということです。

さらにイエスは、失われていた一匹を見つけだした。失われていた一人を発見した。それは神にとって無上の喜びなのだと言うのです。信じられないことですが、神はわたしたちが神のもとに帰ることを、その羊を抱きかかえて友だちや近所中を呼び集めて、一緒に喜んでくださいというほど喜んで下さるのです。

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