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イエスは山から下ってきました。山上で、イエスの姿が真っ白く輝き、そして偉大な旧約の人物、エリヤとモーセと語るという出来事が起こったのですが、ペトロは驚愕し、我を失い、現状維持を望んだほどでした。けれども、イエスとモーセとエリヤが語っていたことは、十字架であり、人々から捨てられ、殺されるという話をしていたのです。ペトロはそれを「維持」したいと口走ったのです。人は、なんとおろかなのでしょう。ペトロは、イエスの心の深いところを知ることができなかったのです。そして、それはペトロだけの問題ではないのです。

イエスが山から下りてくると大勢の群衆がイエスを待っていました。「弟子たちが、悪霊につかれている子どもを癒せなかった」ので、イエスならできるだろうと期待して待っていたということでしょう。

群衆の中から父親がイエスに向かって大声で癒やしを求めて叫びました。イエスはこの事態をご覧になって、こういわれました。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。」

珍しい怒りを表したことばです。イエスの「信仰のない、よこしまな」ということばは何に向かっているのでしょうか。

まったく同じような状況が8章40節以下にありますが、この時、イエスはすぐに父親と共に娘のところに行かれました。この違いはどこにあるのでしょうか。

そう考えると「群衆の中から叫んだ」という表現に、「弟子にできないけれど、お前にはできるのか」と試すようなニュアンスを感じます。いいえ、むしろイエスに命じるようなニュアンスさえ感じるのです。その父を物見遊山のように取り囲んでいる群衆たち。自分たちの非力さに戸惑い、イエスへの信頼を失って動揺している弟子たち、そしてその誰もがイエスの十字架に赴く心の葛藤を考えようともしていないのです。

そのイエスの鋭い言葉の矛先は、父親を貫き、群衆を貫き、弟子たちを貫いて、さらに「時代」を突き刺しているのです。弟子たちだけが「不信仰でよこしま」なのではない。弟子たちの後ろに、父も、群衆も、そしてあなたも、あなたも、不信仰でよこしまなのだと言われたのです。

山上で、イエスはどのようにして人間を救うべきかと苦しみ、悩んできました。それは我が身を人々の嘲笑と、暴力と策謀の中に投げ出し、捨てられて、殺されても、なお人間を愛し続けるという力を求め祈ってきたのです。そのイエスを力づけるために神はモーセとエリヤを送って下さったのです。そういうふうにしながら、十字架の救いのために、イエスが歩みだそうでしているその時に、山を下ってきてみると、そこには人間の「不信仰で、よこしまな」現実があったのです。

そして、この言葉は私に向けられているのです。私たちは人の評価を求め、自分が大切にされ、自分の思いが通り、自分の願いが叶うことを求めているではないですか。思い上がり、尊大になり、何もかも自分の了見と力によって、切り抜けているかのように思っているではないですか。思うようにならない現実の中で、イエス様、なぜわたしだけが苦しんでいるのですか、あなたはなぜ沈黙されているのですか、叫んでいるのではないでしょうか。

イエスの十字架を思ったことがあるでしょうか、イエスの十字架へ赴かれたその祈りを思ったことがあるでしょうか。イエスが十字架上で味わわれた苦難と孤独を思ったことがあるでしょうか。私は悔い改めます。まさに「不信仰でよこしま」なのは私自身なのです。

今日のイエスの最後のことばが私たちの救いなのです。イエスは、そんな人間であるにもかかわらず、そんな父親、そんな群衆、そんな弟子たちであるにもかかわらず、「あなたの子どもをここに連れてきなさい」といわれたのです。そんな私たちにも関わらず、イエスはあなたの悲しみを癒してあげようと仰って下さるのです。

神は確かに偉大です。しかし、それは悪霊を追い出したからではありません。この「不信仰でよこしまな」私を愛して下さっているからです。

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