札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光

日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

札幌北光教会/トップお問い合わせ
札幌北光教会/トップキリストの招き平和宣言過去の信仰告白オルガン結婚式・葬儀アクセスマップfacebook
教会案内礼拝案内集会案内牧師紹介/説教納骨堂/クリプト北光貸し会議室

>札幌北光教会/トップ  >牧師紹介・説教  >あなたが隣人となりなさい


以前、小1だった長男に善きサマリア人の話をしてあげました。そして少々意地悪な質問を。「もし、日曜日の礼拝に行っている途中、道端にお婆さんがうずくまっていたらどうする?その人を置いたまま礼拝に行く?それとも礼拝に行かずに助けてあげる?」。すると、こんな答えが。「お婆さんを背負って、讃美歌を歌いながら病院に連れて行ってあげる!」。その自由な発想に驚かされ、嬉しくなりました。と同時に、自分がいかに人を愛することに不自由であるかを思い知らされました。

永遠の命を得る秘訣を主イエスに尋ねた律法学者は、主イエスから神と隣人への愛の実行を求められました。この律法学者は、必ずしも利己的で独善的な人間だったとは思いません。神を愛し、隣人を愛することが大切だと分かっているのです。しかしながら、どうしても愛することにおいて不自由で、頑なで、臆病な自分がいるのです。神と隣人を愛し得ない自分を、いかに克服できるか、それはまさに彼にとって命の秘訣であったのです。

「わたしの隣人とは誰ですか。」彼は「自分を正当しようとして」問うたと記されていますが(29節)、私は彼がもっと切実に問うているように感じます。「果たして自分は本当に誰かの悲しみに寄り添って生きてきただろうか。本当に喜びを共にしてきただろうか。」「所詮自分には、皆が隣人であり、皆が隣人でないような、当たり障りのない関わり方、自分が傷つかない程度の、自己満足のための愛しか行使できないのではないか。」「どうすれば、誰ならば、私は本当の愛に生きられるのだろうか。」彼は光を求めて彷徨っています。

そこで主イエスが彼に語ったのが、善いサマリア人のたとえでした。おいはぎに襲われ、傷つき倒れていたユダヤ人を助けたのは、意外にも民族対立していたサマリア人であった。宗教的、民族的、経済的、時間的な壁を越え、誰がなんといおうと、どう評価されようと、目の前の命のために、今自分の出来る精一杯をなす。そんなサマリア人の自由な姿に、律法学者は憧れさえ抱いたかもしれません。

「行って、あなたも同じようにしなさい。」と主イエスは律法学者に告げました。それは皮肉でも批判でもありません。自らの偏狭な愛の中で、「誰が隣人となりうるか。誰ならば愛することができるか」と人を選ぼうとし、結局は誰も愛せずにいた律法学者は、このたとえ話を通して、「誰が隣人か」ではなく「自分が隣人となる」という自由な視点を示されました。そして、「さぁ、あなたもここからが始まりではないか」と押し出されています。
その後、この律法学者はどのように変えられていったのでしょうか。聖書に記されることのない彼の後日談、それは実に私たち自身の生き方に描かれているのではないでしょうか。

「さぁ、ここからあなたが隣人となるその道を歩み始めてみないか」。そんな主イエスの呼び掛けがあります。私たちはなお恐れます。「隣人を愛することなどできない。限界がある、傷つけることになるかもしれないし、傷つきたくもない」。そう怯え、なお閉じこもろうとします。

しかし、私たちがなんの躊躇も限界もなく、愛することのできる人間であったのならば、そもそも主イエスがこの世に来られ、十字架に掛かって死んで下さる必要などないのです。主イエスが十字架で死なれたという事実は、私たちが愛に生きることができないものであるという現実を映し出しているのです。罪とは、要するに「愛せない」「愛さない」ということに尽きるのだと思います。

私たちは、罪を犯さなければ生きていけない者であることを主の前に告白しなければなりません。神を知っている、信じていると言いながらも、実は最も身近なところで神を見失い、欺いてしまっていることを告白しなければなりません。しかし、神はこの私を、この罪の身のままに、受け入れ、なおも今日という日を生かし、「さぁ行きなさい」と送り出して下さいます。
自分を取り繕うことに労力を注ぎ、自分しか見えなくなる私の貧しさを御存じの上で、主は限りなく赦して受け入れ、何度でも十字架のもとから新たに送り出して下さいます。

誰を愛するとしても、私たちの愛は完璧な愛ではありません。限界があり、脆さがある。それでも、その愛を必要としている人がいるのかもしれません。
善きサマリア人は傷ついたユダヤ人に手厚い配慮をしています。しかし、彼にもまた自分の用事があり、だからその場を離れていきました。いつまでも共にいるわけにはいかなかった。いわば、今この時、自分に出来ることをしたまでのことなのです。彼もまた、自分の愛の業に満足するよりも、むしろ限界を思い知らされたかもしれません。

私たちはささやかな愛しか持ち得ません。愛することにおいて欠けや負債を覚えるしかありません(ローマ13章8節)。だからこそ繰り返し十字架のもとに帰ってくることへと招かれ、十字架から出発するように押し出されるのです。

前のページに戻る

お問い合わせ北光幼稚園

個人情報保護方針について