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わたしたちは、聖書を読んでいる際、あるいは説教を聞く中で、「罪」、「罪人」という文言に一度は出会ったことがあると思います。なぜ、こうも「罪」ということをキリスト教は強調するのでしょうか。それは、キリスト教でいう「罪」は神さまとの関係を考える上でとても重要なものだからです。そもそも聖書に登場する「罪」は、ヘブライ語やギリシャ語から直訳すると「的外れ」という単語です。人間が自分の尺度だけで物事を見ることや考えることを絶対と信じること、これが的外れであるというのです。つまり、人間が自分を中心にすることで、そこにいなくてはならない存在を忘れてしまっていることがキリスト教の罪が意味するところです。人間の中心にいなくてはならない存在、忘れてはならない存在、それが神さまです。だれしも、神さまを忘れてしまうことがあります。あるときには自分に絶対的な力があると過信したり、またあるときには自分は神さまから見放されていると思い込んだり。
当時、ファリサイ派と呼ばれるユダヤ人のグループによって、罪を巡る差別が起こっていました。罪から救われた自分と、罪人のままの奴らという構図です。しかしイエス様は、「救われたと思っている人も罪人と呼ばれている人も、みんな神さまの前では罪人なのだ。だから神さまはあなたがたを赦している。的外れな一人一人の真ん中に立って下さっている」と、生涯をかけて宣言していきました。

ルカによる福音書14章1節〜24節は、イエス様がファリサイ派ユダヤ人との食事会に招かれたときのことを描いています。そして、とある一人の客が、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言いました(15節)。発言者の意図は、ただ幸運なこと、ではなくて「神さまから祝福されていること」と言いたいのです。この言葉に対してイエス様は、宴会のたとえを話します。
宴会の主人は、最初に招いていた人たちから招待を断られました。しかしこの主人は宴会を中止にはしませんでした。次に「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」を連れて来るように僕に命じました(21節)。イエス様はたとえばなしとして、これらのことを話しました。招きに応えなかった人々にたとえられているのは、どんな人たちでしょうか。それは、イエス様を食事会に招いたファリサイ派ユダヤ人です。イエス様がたとえばなしを話すきっかけの発言をした客もその中に含まれます。彼等は律法書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)の学びを徹底して行っていた人々です。たとえばなしの中で招待を断った人々(畑を買った人、牛を買った人、結婚した人)は、ファリサイ派の律法解釈によれば、神さまから祝福されている人々とされていました。しかしイエス様は、たとえばなしの中で、この考えを批判しています。「いまの祝福にばかり心を奪われて、その先にあるもっと大きな祝福を忘れていないか。神さまの招きという祝福を忘れていないか」と問うています。

それでは、たとえばなしの主人は何故最初から「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」を招待しなかったのでしょうか。やはり、ここにも、イエス様のファリサイ派ユダヤ人への批判が込められています。律法書には、祝福についての記事だけでなく呪いや罰についての記事もあります(たとえば、レビ記26章16節)。ファリサイ派の人々は、病や障害をもっている人は神様から罰を受けているのだと解釈していました。また、財産をもつことが祝福であるならば、貧しいことはその逆で呪いなのだとも考えていました。しかしイエス様はそうした状況にある人々こそ、神さまの赦しと招きに応えるのだと宣言します。自分は救われていると思い込んでいる人よりも、周囲から罪人のレッテルを貼られている人の方が、むしろ本来の意味での罪と向き合う時間をかけているから、的外れな自分の中心に神さまがいてくれることを受け入れられるのだと。

ここまで読むと、ファリサイ派の人たちは果たして救われるのだろうかと思ってしまいます。この食事会には、イエス様が招かれた側ですが、むしろ神さまがファリサイ派の人々を救いへと招いたのではないでしょうか。差別を繰り返している彼等に、神さまはイエス様の言葉を通して救いのきっかけを与えているのです。彼等をこれから始まる宴に共に与らせるための、愛がこもった批判です。
「罪」という言葉は、きっとこれから何度も繰り返し、わたしたちは出会うことでしょう。しかしわたしは思うのです。自分の罪を見つめるとき、それは、自分の中心に神さまがいることを思い出すときであると。宴の中心、主催者である神さまは、的外れな自分でさえも、救いという名の宴へと招き続けています。

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