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アドヴェント諸集会を終え、2015年を既に歩み始めた今だからこそ、私たちは、キリスト者としての生き方の基本を再確認しておくことが大切です。それは待ち望むという生き方です。

「待ち望む信仰」といっても、遠い未来のことにばかり思いが注がれて、身近な今日という一日に思いが向かない、慌てて日常に手が付けられないということであれば、その信仰は本末転倒です。待つという姿勢は、結局のところ、今日一日を大切に生きるということにほかならないからです。忙しさに追われる日々、あるいは、なんの変哲もないと思われる日々、悲しみや恐れに苛まれる日々も、実はそこに思いがけない恵みがあるということにこそ目を注ぐ必要があるでしょう。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と聖書は教えています。どんな日であっても、そこには決して失われることのない喜びがあるのです。祈る時、必ず向き合っていて下さる神があなたにはいるのです。「感謝しなくていい」というような無駄な時などないのです。今この時にも、神様がわたしを静かにみつめておられる、深い愛をもって、赦しをもって今を捉えていて下さっていることを確かめながら過ごす。それこそが「待つ」という姿勢です。アドヴェントは終わったのではなくて、始まったばかりです。

イエスの母マリアは、受胎告知の場面で、それが「何のことかと考え込」んでいました。しかしやがて、羊飼いたちの訪問を受けた時には、「これらの出来事をすべて心に納めて思い巡らしていた」とあり、さらに2章51節には、「母はこれらのことをすべて心に納めていた」と記されています。すべてを心に納め続けていくマリア。そう、きっと我が子が十字架に磔られて死にゆく時も。老シメオンが神殿で告げた通り、心を剣で刺し貫かれるような絶望的な経験もすべてマリアは心に納め続けました。さらにもう一つ。使徒言行録1章に、再びマリアの姿がさりげなく描かれていますが、それは主イエスの約束された聖霊が降るのを待ち望みながら祈っている姿です。そこでもなお、マリアはすべてのことを心に納めつつ待ち望んでいるのでしょう。実にマリアの生涯全体がアドヴェントでした。彼女がそんな信仰を全うできたのは、彼女がただ志高く、信心深い人間だったからではありません。ただ主なる神が、絶望の先に希望を、悲しみの先に平安を、いつも見つけさせて下さったからです。神様がそうして確かに彼女に深く関わって下さる神であったからです。

母マリアの姿、実はここに、神様ご自身の愛が証しされていると思います。神様こそ、わたしたちをその御心にすべて納め続けていて下さいます。人生の意味や希望や喜びがなく、うずくまり叫ぶ時も、神様はそこでいい加減に、曖昧にではなく、真実に真剣に愛をもって生きておられる方です。その証しが飼い葉桶であり、そして十字架にこそ現れています。神様は、たとえ宿屋が一杯であったとしても諦めてすごすご天に引き返すのではなく、飼い葉桶に寝かせてでも独り子を世に与えるとの決断をされました。独り子が十字架に掛けられ、どんなに際限のない人間の罪が繰り広げられても、限りない忍耐、限りない愛をもって、「あなたを赦す」「あなたを愛する」と宣言されたのです。それほどまでに、私たちを心に納めていて下さる愛を、今日も受けています。

1月17日は阪神淡路大震災から20周年。来年の新成人は、もうあの震災を直接知らない世代となります。時の経過は早さを思います。新しい年は、やってきては去る。多くの痛み悲しみもまたやってきては過ぎていく、そして私たちの信仰も時にまた。草は枯れ、花は散る。山は移り、丘は揺らぐ。しかし、その中でただ主の言葉だけは朽ちることがありません。「私はあなたを愛している、私はあなたを赦す」その変わらぬ決断の内にすべてが納められている、その主の言葉を信じて立つ時、主の年2015年は始まるのです。

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