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イエス・キリストは、十字架上で命を奪われて死んだのですが、イエスを殺すための謀略が始まったことを表すのが、今日読んでいただきました聖書箇所の終わりにある 「怒り狂って、イエスをなんとかしようと話し合った」という言葉です。この出来事は、イエスが殺されるきっかけになった出来事だと考えることもできます。

安息日にイエスが会堂で話をしていると、1人の右手の萎えた人がイエスの前にやってきました。この人はイエスを罠にかけようとしている律法学者、ファリサイ派の人たちによって送り込まれたのです。イエスは彼の意図と悪意を見抜きましたが、しかし、それでもこの人を癒やしました。

これは罠でした。イエスはこれが罠であることを十二分に知った上で、やはり癒やしのわざを示したのです。イエスの目は人にではなく、神に向かっています。安息日に本来すべきことを行うのです。まさに「善を行い、命を救うこと」こそ安息日に相応しいことだから、イエスはそれを行ったのです。相手のいかんにかかわらず、真実を行ったのです。

真実に反発することを「心を頑なにする」といいます。ファリサイ派の人々は心を頑なにして、イエスの真実を受け入れず、それに反発します。それは聖書が「怒り狂って」と表現するほど激しいものでした。怒りは人間を狂わせ、本当になすべき事を見失わせるばかりか、決してしてはならないことをさせてしまうのです。彼らは、イエスを「何とかしよう」つまり、殺そうと考え始めたのです。

ところで、ここにいる右手の萎えた人、この人の心も頑なになっていたのです。ここにわざわざ右手と書かれているのは、意味があるでしょう。右手は利き手です。右手は彼自身の歩みであり、彼の誇りであり、彼自身の人生でした。だから、その右手が奪われることは、彼の人生が奪われたのと同じだったのです。

その彼にファリサイ派は「罪人」というレッテルを貼ります。この人も自ら「罪人」だと考えていたでしょう。

イエスはこの人に対して、自ら真実を生きることによって、真実に生きることを示されます。そしてそのことで、この人が変わって行くのです。

イエスは「手を伸ばしなさい」と言います。彼の手は萎えているのです。それを伸ばしなさいと言うのは、無理な注文です。彼の心の中には「私の手は伸びないのだ」という思いがあったでしょう。ふつうなら、「治してくださったら伸ばします。」と訴えるところでしょう。ところが聖書には不思議な表現がかかれています。「伸ばすと、手は治った」治ったから手を伸ばしたのではないのです。イエスの言葉を信じて、それに従い、伸ばしたから、治ったのだと言われています。

ここで癒されたのは何でしょうか。手が癒されたのでしょうか。そうではありません。右手だけにとらわれていた彼の心、自分の過去と弱さにとらわれていた彼の頑なな心が癒されたのです。だから、彼は真ん中に立ち、手を伸ばしたのです。

イエスの癒しというと私たちは、肉体の方に目が向いてしまいます。しかし、イエスの癒しは、心を砕く癒しなのです。私たちの頑なな心を砕き、真実を受け入れ、真実を行う心を創造する癒しなのです。

真実に出会ったとき、心を頑なにして、怒りのあまり、狂ってしまい、悪を行い、人を滅ぼし、イエスを殺そうとする人間が描かれています。恐ろしいことに人間は、そんな醜さを持っているのです。その頑なさと恐ろしさと怒りは私たちの中にもあります。

そして私たちはかたくなです。悲しくなるほどにかたくなです。愛の人、イエスを見て、「怒り狂う」ほどに頑ななのです。

イエスは人間のかたくなな心を砕くために何をされたのでしょうか。それは自分の生命を捨てることです。十字架でなければ、このかたくなな心をうち破ることはできなかったのです。いいかえれば、十字架の主、イエス・キリストだけがこのかたくなな心を砕くことができる方なのです。

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