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神殿を壊してみよ(2:19)といい、安息日を破り(5:16)に、「わたしを信じよ」(7:38)と群衆に吹聴したイエスに殺意を抱く祭司長やファリサイ派の人々は、捕縛するその時を見計らっていました。その様な緊迫した状況の中、イエスは、なんと姦通の罪を犯した女性に赦しを告げたのでした(8章1節以下)。十戒に背くことは明白なこの罪を赦すなどということは、十戒を与えた神ご自身以外に出来ないのです。しかし、イエスは神の権威をもって赦しを告げたのです。それが結果的にご自身の身に十字架の死という代償をもたらすとしてもです。なんとしてもこの女性が、神の前に赦された者、愛された者としての自分を生きていくことを願ったのです。

主イエスは確かにご自分の死を覚悟しています。「わたしは去っていく。あなたたちは私を捜すだろう。わたしの行くところにあなたたちは来ることができない」(21節)、「あなたたちは、人の子をあげた時(中略)分かるだろう」(28節)との発言からも窺い知れます。 しかし、人々は「『わたしの行くところにあなたたちは来ることができない』といっているが、自殺でもするつもりなのだろうか」(22節)と、イエスの言葉の真意を理解できません。イエスは誰もついていこうと思わない死ではなく、誰も「来ることが出来ない」死、誰も代わることのできない死へと向かっていくのです。その死は、赦されざる罪を神の前に抱えてしまっているすべてのものたちの代償としての死なのです。

さて、主イエスはご自身の死と共に、ファリサイ派の人々の死を語ります。「あなたがたは罪のうちに死ぬ」と、実に3度この言葉を語っています。3度という数字はそれが決定的であるという意味を含みます。決定的に彼らに告げたのです。「罪の内に死ぬのは、わたしではなくて、あなたたちの方なのだ」と。そして、彼らの死は決して未来の話ではありません。「あなたたちはそのままではいつか罪の内に死んでしまうぞ」という脅しではありません。もう既に、あなたたちは罪の中に死んでいるのではないか」と言っているのです。

そこまで辛辣に言われるファリサイ派の人々の罪とは何でしょうか。それは、自分たちがまるで上のもの、神に属していると得意げになっているという大間違いです。これに対して、主イエスは、「あなたたちは下のものに属している」(23節)と言われるのです。すなわち、「あなたたちは、自分が不完全なものに過ぎないことを深く弁えなければならない」ということでしょう。それを忘れ、思い上がり、高慢にも人を裁き、自分を一角の者だと思い込み、上のものに属しているように思い込み、自分の不完全さを真正面から受け止めようとしない、そして人を裁き、排除してしまう。そのような罪の内にいる自分であることを気づけない、それは、もはや「神の前に本当に生きている」とは言えないのです。それは生きながらにして実は死んでいるに等しいのです。そのような己の実態を知れというのです。

主イエスは、彼らを裁き捨てるためにそう言っているのではありません。もはや罪の中に死んでしまっている彼らをもまた、神の前に生きる者となることを切実に願っているのです。彼らもまた、本当に神の民として、命の光をもち、喜びと謙りをもって生きるものとなることを願い招いているのです。主イエスの招きとは、「別に私を信じても信じなくても良い」などといういい加減な招きではありません。「あなたの人生、あなたのお好きなように、でも自己責任ですと」というものではないのです。あなたは、決して罪の内に死んだものとなってはならないのだと命掛けで招くのです。
私たちは、自分が実はどれほど危機的な状況にあるのか、神の前に死んでいるに等しい、空っぽに渇ききったものであるのかということに、気がつけずにいないでしょうか。神に愛され、生かされ、そしてどこまでも赦されているその事実に盲目となり、人生の中でいくら飲んでも渇く水をばかり求めていないでしょうか。

主イエスは言われます。「わたしはある」ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪の内に死ぬことになる。」(24節) 「わたしはある」とは、要するに、いついかなる時も、主が存在するという揺るぎない事実です。私たちの生きる一切の大前提として「わたしはある」との言葉が告げられているのです。 姦通の罪を犯した女性に、石を投げようと思った人々はみな、その場を立ち去っていきました(8章9節)。主イエスただ一人が最後までその場に残り続けていたということ、そこにも「わたしはある」ということが示されています。私たちもまた、この日曜日、「わたしはある」と告げて下さる主を前にしています。十字架の死を越えて甦り、私たちの前に、最後まで立ち続けていて下さる主なのです。

わたしたちの人生は、「わたしはある」といわれる方が、自らの命を懸けて切り開いて下さった道です。そこには夕べもあり、朝もあります。悲しみもあり希望もある。しかしいかに人生が移り変わってきたとしても、それは限りなく愛されてきた人生、赦されてきた人生にほかなりません。「わたしはある」この愛の事実を、畏れをもって信じ、主の前に謙り、罪の内に死んだものとしてではなく、愛の内に生きたものとしての足跡を残していきましょう。

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