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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■正しすぎた兄
父親の束縛から解き放たれ、自己実現を求めて遠い国に出ていった次男。一方、父の言いつけに忠実に生き、真面目であり続けることによって幸いを手にしようとしていた長男。二人ともが別の仕方で父親の心から遠く離れ、深刻な状態に陥っていました。父親は、そんな両者に対して扉を開いています。謝罪や感謝を強要することなく、条件なしにただ息子たちを愛し、彼らのいるべき場所に迎え入れようとするのです。
しかし、兄は頑なに拒絶し、弟にも父にも距離を置き続けました。正しく生きてきたという自負が、父の愛を容認できなかったのです。
「自分こそ相応しい」「自分こそ祝福されるべき」という生き方に陥っている人々に対する主の問い掛けです。

■イエス・キリストはどこ?
このたとえ話の中で、「兄」というのは、律法学者やファリサイ派の人々に該当します。放蕩の限りを尽くした「弟」とは、徴税人や罪人と呼ばれていた人々と読むことができます。そんな二人のことを愛する「父親」とは、神です。しかし、イエス・キリストに該当する登場人物がこのたとえ話にはいません。放蕩息子のたとえの前に語られた、「見失った羊のたとえ」でも、「無くした銀貨のたとえ」でも、見失ったものを捜す人が登場します。その流れで言えば、遠い国で没落してしまった者を捜しだすために、誰かが出かけていくという展開が予想されると思うのですが、ここで読者の予想は裏切られるのです。誰も捜しにいかないのです。

■兄が救われるためには
主イエスは、あえてそのような人間を登場させないことによって、ファリサイ派の人々に、また私たちに向けて、こうおっしゃっているのかもしれません。「本当の兄ならば、弟を捜しにいくべきではなかっただろうか」、「本当の兄ならば、時間もお金も労力も惜しまず、弟のために立ちあがるべきではないだろうか」。そして、「その選択こそが、満たされない思いに縛られる兄自身を救う道なのではないか」と。

■もう一人の兄
羊も銀貨も自分では元の場所に帰ることはできませんが、この息子は人間です。だからこの話には、彼を捜す人を設定する必要はない、と思われるかもしれませんが、果たしてそうでしょうか。確かに彼は、豚小屋で「我に返り」、「お父さんのもとに帰ろう」と立ちあがりました。しかし、本当に自分の意志と力だけで帰ることができるものでしょうか。むしろ自分の過去と現在を思うほどに帰ることは困難だったのではないでしょうか。弟が父のもとに帰るためには、どうしても彼を捜しだし、連れ戻してくれる兄が必要なのです。このたとえ話には登場しない、そのような、もう一人の兄がいるとするならば、この話を語っておられるイエス・キリストこそ、その人です。弟を裁くのではなく捜すために(ルカ19:10 ヨハネ3:17)、父なる神に遣わされ、命を掛けて父のもとに連れ戻して再び家族を回復して下さったイエス・キリストという兄です。

■沈黙はやがて歌に
主イエスは、十字架上で父なる神に向けて叫びました。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」。これは本当に驚くべき言葉です。この叫びは、いわば、主イエスという兄が、悲惨と絶望の中にある弟の叫びを自分のものとされた言葉です。「自分はもう見捨てられているのではないか」「もう行き先もなければ、帰る場所もないのではないか」、そう思わざるを得ない者を、探し出し、その苦悩を自らのものとしながら、父のもとへと連れ戻すために、世に来られたのです。父はその時、死んだ息子が「生き返った」と喜びました。
北星女子中高ハンドベルクワイアの皆さんが「球根の中には」(21−475)を演奏してくださいました。「沈黙はやがて歌に変えられ、深い闇の中、夜明け近づく、過ぎ去った時が、未来を開く」「いのちの終わりは、いのちの始め、おそれは信仰に、死は復活に、ついに変えられる永遠の朝」。このことを信じ、生きる時、死ぬる時のまことの慰め、希望とすることができるのは、ただ、私たちを見出し、その命にかたく結び合わせて下さるイエス・キリストという兄がいるからです。

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