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「レ・ミゼラブル」の劇中曲「夢破れて」は、美しい旋律に抑えようのない人生の哀しみが歌詞としてのせられています。「過ぎ去り日の夢、希望に満ちていたあの頃。永遠の愛を夢見ていた。夢は儚く破れ、わたしは何もないここにいる。わたしの夢見た人生。こんなはずじゃなかった。こんな地獄で暮らすなんて。こんな哀れな姿で。今はもう台無しになった我が人生。夢破れて。」(日本語訳 一部抜粋)
中風の人が生きてきた苦悩に重ね合わせることができます。この人にもまた夢があり、生きる望みがあったのです。そして、ある日を境にすべてが音を立てて崩れていったのでした。

主イエスのおられる家に運んでくれた4人の男たち。彼らの愛なしこの物語は始まりません。到着した家は既に主の言葉を求める黒山の人だかり。入り込む余地がないことを悟った彼らは、屋根に穴をあけて中風の人を、主イエスめがけて吊り下ろすという大胆な行動を取りました。
しかし、中風の人の容態は一刻を争うというほどではなかったでしょう。それならば無茶をはからず、入り口付近で待機するでも構わなかったでしょう。病の癒しを求めていただけだとするならば。しかし、実際彼らは一刻を争ったのです。「今しかない!」と彼らが渇望したもの、それは家の中で人々に語られている主の言葉です。その言葉にこの身の生きる意味や希望を求めたのです。「どうしても聴きたい」あるいは「どうしても聴かせてやりたい」と御言葉を求める彼らの思いが、主イエス間近の特等席めがけて屋根をやぶったのです。
主イエスは、「その人たち」の信仰をご覧になりました。「その人たち」とは、4人の男たちのことだけを指すというより、吊り下ろされる中風の人も含む5人を指していると思います。主のみ言葉を聴きたい、聴かせたい。主はそんな彼らの信仰を見上げたのです。

この場面は教会という「家」に、大切な問いを提起しているように思います。「開かれた教会」「バリアフリーの教会」としばしば耳にします。しかし実態は、心の扉も屋根も依然として頑丈で、結果としてみ言葉は自分たちだけの所有物になってしまっていて、本当にそれを必要としている人には既に入り込む余地がないという場合もあるでしょう。反対に、一見誰でもウェルカムの和気藹藹とした雰囲気でも、そこで肝心要のみ言葉が求められず、人間の寄り合いで終始するという場合も有り得るでしょう。札幌北光教会の屋根はちゃんと(上に点を付けてください)やぶれているでしょうか。主の言葉が、それを必要としている人に届けられているか、あの人をここに連れてきたい!一緒に御言葉を分かち合いたいと願う時、大胆に屋根をやぶる必要も教会にはあるのですね。その時、主の言葉がただの言葉で終わらず、出来事となっていくのを皆が驚きをもって目撃するのです(12節)。

主イエスは、中風の人に間近で告げました。「子よ、あなたの罪は赦される」(5節)「子よ」です。「あなたもまた神の全力の愛に生かされている大切な神の子なのだ」という全肯定です。そして「あなたの罪は赦される」と言われました。「あなたには何の罪もないよ」とおっしゃったのではなく「あなたの罪は赦される」と、主はこの人の罪の現実を認めているのです。主の言われる罪とは何だろうか、戸惑う時、この物語はあなた自身の物語となっています。「あなたの罪」と言われる罪、それは神が愛の神であるということに対して心覆われているということです。神を怯え、あるいは神はわたしのような者になどなんら関心のない遥か遠くの存在だと感じてしまうこと、あるいは自分とはその生も死も意味を持たない肉の塊、一自然現象であるかのように失望しているということだと言えるでしょう。
しかし、吊り下ろされ、主の言葉を聴いた時、中風の人は主がこんなにも近く、こんなにもわたしは愛されているという事実を初めて知ったでしょう。自分が罪の中にあったことを知り、そしてその罪が今、ここで赦されていることを知ったでしょう。これは、いまわたしたちがここで告げられるべき、また聴かれるべき言葉です。
罪を赦したことが神を冒涜する行為だとして律法学者の反感を買い、主イエスは十字架の死へと歩みを進めることになりました。いわば「罪人を赦した罪」でイエスは十字架に死なれたのです。なんとも皮肉なことのようでありながら、しかし、この十字架こそ、わたしたちが今日、赦されていると信じることのできる最も確かなしるしなのです。

一人の罪人が破れた屋根から吊り下ろされた光景を想像しながら、主イエスが洗礼を受けた場面(マルコ1章)が思い起こされます。洗礼を受けた時、「天が裂け」霊が鳩のように「降って来た」のでした。この出来事は、主イエス・キリストが、天から一人の人間として、それも洗礼を受けるべき一人の罪人として吊り下ろされた出来事だと言えるでしょう。主はわたしたちと同じ者となられたのです。主が洗礼を受けた時、その場一帯に神のみ言葉が響き渡りました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」(マルコ1:11)。この言葉を告げるべく、主は今日もわたしたちを訪れるのです。

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