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>札幌北光教会/トップ  >牧師紹介・説教  >視よ、これぞ世の罪を除く神の羔羊


洗礼者ヨハネは、自分の方へとやって来られる一人の人を指し示して言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」。ヨハネによる福音書は、主イエスがいつ、どこに、どのようにしてお生まれになったのかという誕生の経緯にではなく、一体イエス・キリストとは誰であるのかという本質部分に注目します。「神の独り子としてのキリスト」、「世の罪を取り除く神の小羊としてのキリスト」といった表現によって。

「独り子」、「神の小羊」というキーワードは、読者をアブラハムがイサクを捧げようとした場面へと導いてきたことでしょう。愛する独り子イサクを捧げよ、との神の命に従うべく、アブラハムが薪の上で息子を屠ろうとした瞬間、「その子に手を下すな。あなたが神を畏れる者であることが今、分かった。あなたは自分の独り子である息子すら、わたしに捧げることを惜しまなかった」とみ使いから告げられました。その時、アブラハムは「目を凝らして見回した」(創世記22:13)のです。すると木の茂みに角を絡ませた一匹の羊がいて、この羊をもってアブラハムは神への捧げ物としたのでした。アブラハムは、主がこの羊を備えていて下さったことを確信し、その場所を「主の山に備えあり」(イエラエ)と名付けたのでした。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と告げたヨハネの心中には、この場面が思い起こされていたことでしょう。説教題は、文語訳聖書から「視よ」としました。アブラハムが目を凝らして、主の備えたもう一匹の羊を見つけたように、ヨハネも「凝視せよ」と私たちに告げるのです。主イエスこの方こそ、私たちの代わりに捧げられる真の犠牲となって下さいました。神御自らが独り子の命を贖いとして備え、私たちとの交わりに生きる決意をして下さったのです。

「羔」(こひつじ)という字に含まれる「4つの点」は、羊か4本足で歩いている姿を表しているという説があります。思えば、十字架上で息絶えた主イエスの足は折られることがありませんでした(ヨハネ19:33)。そして、そのことが聖書の成就であったと記されています(同36節)。過越祭の規定には「過越祭で捧げた羊…その骨を折ってはならない」(出エジプト12:46)と定められていることからも、主イエスの足が折られなかったことは、この方こそ犠牲の羊であったことの隠喩と言えるのです。やがて主イエスは復活し、その足で歩き出しました。「羔」なるキリストは、今日もその折れることのない足で歩き、「視よ、私たちの方へと来られる」のです。私たちの人生の足がくずおれても、私たちを担い、背負い、救い出す主の足が私たちを支えていて下さるのです。

ヨハネは2度にわたって「わたしはこの方を知らなかった」と告白しています。

懸命に救い主の到来を告げながらも、彼は「その方を知らなかった」。ヨハネの中にもまた戸惑いがあったということでしょう。ヨハネのこの素直な言葉に感動を覚えます。信徒であれ伝道者であれ、こういう気持ちになることが時としてあるのです。毎年クリスマスを祝いながらも、しかし私たちは、どれだけ「この方のことを知っている」と言えるでしょうか。むしろ「イエスなど知らない」と主を遠ざけ、自らを弁護する生き方、「救いが分からない、見えない」自分自身の中に埋没してしまう生き方を繰り返している私たちです。救われたという実感、喜びがないという空しさの中で立ち尽くしてしまうのです。

「視よ」と呼び掛けられても、私たちには主がすぐには見えないかもしれません。ヨハネでさえ「知らなかった」のだと告白したならば、私たちは、キリストの贖いに込められた愛の大きさ、広さというものを、まだ僅かほども「知らない」と告白することが真実でしょう。しかし、それでも、確かに主が命をこの私のために捨てて下さり、それ故に今日ここに私があるという事実は揺るがず、失われないのです。

クリスマスが終わり、ろうそくの灯火はもうここにはありません。しかし、その灯火は私たちの内に灯されています。そして、暗くなっていく灯心を消すことのない主(イザヤ42:3)が、その足で伴い、光を支え、寄り添うていて下さるのです。

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