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「自分の十字架を背負う」(23節)とは、どういう意味でしょうか。続いて語られている言葉を抜きにして考えることはできません。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失うものは、それを救うのである」(24節)。
つまり、自分の十字架を背負うとは、自分の命を救おうとせず、むしろ主イエスのために失うことであるというのです。そして、そのことはかえって命を救うことにつながるというのです。

私たちはどうか。「自分を捨てる」どころか、日々、自分の思いを沢山抱えてしまっていないでしょうか。「自分にとってああなれば、こうなれば…」とか「こうでなければならない」という思いをなかなか手放せないものです。しかし、確かに十字架は片手では担えません。抱えている自分の思いを手放さないことには、十字架を背負う歩みは始まらないのです。「ああなれば」「こうでなければ」という思いは主に委ね、その上で、自分に与えられている人生の課題という十字架を担って、主イエスに従っていくのです。

そのような話には、抵抗を感じたり、「それは無謀だ」と批判的になる人は少なくないでしょう。できれば、そういう話はお断りしたい、耳障りの良くない話です。「ありのままのあなたでいいんだよ」「わたしはあなたと共にいる、安心していきなさい、元気をだしなさい」、そういう神の愛の温かさを感じる言葉を聴いていたいと思いますし、語る方もそういう言葉に落ち着きやすいのです。しかし、この箇所(23節)は率直に「主イエスに従う」ことを私たちに問いかけています。時に私たちは、安直に、自分本位に、「主の導き」と語ることがありますが、導きとは、従っていこうとする自分がいてこそ、その人の中で深く確かめられるものでしょう。

「教会のご高齢の方はとても生き生きとしておられる、心の年齢が若い」という声を、これまで何度も耳にしてきました。本当にそうだと思います。その秘訣は、きっと教会の交わりが自己を目的としているのではなく、他者を目的とした(神と隣人)交わりにあると思います。たとえ僅かな働きであっても、この自分が必要とされ主に用いられているのだと思えるところに命の充足があるのです。そして、それはまさしく自分を捨て、主に従おうとしているということです。礼拝後の臨時教会総会では、私たち一人ひとりがそして教会全体として、いかに主イエスに従おうとする群れであったか、またいかに自分のためではなく、主のために用いられようとしてきたかを、互いに配慮しつつ振り返りたいと思います。札幌北光教会は、今、決して身軽に歩いているわけではありません。沢山の宣教の課題を十字架として背負っています。それは、自分の思いを沢山抱えていては担えないものです。互いに自分を主に献げ委ね、共に課題を担いたいと思います。そして十字架を背負うからこそ、神の愛と赦しの重さを確かめる歩みともなるのです。

28節以下には、山上で祈る主イエスが真っ白に輝き、モーセとエリヤといった旧約聖書を象徴する人物とイエスの最期(つまり十字架と復活)を語っていたという光景が描かれています。弟子のペトロは、「三人それぞれのために仮小屋を三つ建てましょう」と、自分でもよくわからないことを衝動的に呼び掛けました。この素晴らしく神秘的な出来事を形にして記念しよう、ここに留まってもらいたいと興奮しながら願ったのです。

光輝くイエスの姿、それは何を意味していたのでしょう。読者もこの光景にいつまでも留まってしまいそうですが、大切なことは、この後主イエスが再び大勢の群衆の中に入っていかれたということです。主イエスは、ご自分の栄光に高く留まるのではなくて、「かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられた」(フィリピ2:7)のです。真に一人の人となってこの世を歩まれ、「自分を捨て、十字架を背負って」歩まれた方なのだということを心を留めましょう。主イエスに従う道、それは山を下りていったイエスに従っていく道です。その道の先には、十字架の死があります。しかし、その死が復活という出来事に導かれて行ったことを私たちは知っているように、自分の思いを主に委ね、十字架を背負って主に従っていくその先には希望があります。

パウロが言いました。「あなたがたの体は、神から頂いた聖霊が宿って下さる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから自分の体で神の栄光を現わしなさい。」(Tコリント6:19-20)
私たちにとって大切なことは、山の上に仮小屋を作り、そこに主の栄光を納めることではなく、わたしたち自身が、今日、主の宿る神殿とされていることです。このわたしを通して主の栄光は現されるのです。くすぶる灯心も、主の手に支えられる時、山上の輝きにも勝る輝きを表すのです。

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