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葉が生い茂るばかりで実のなっていなかったいちじくの木。それは、エルサレム神殿を中心として構築されたユダヤ教の実態さながらでした。形骸化した宗教システムによって権威を保持し続ける指導者たちに、信仰の内実はありませんでした。そんな実態を象徴するようないちじくを主イエスは枯らしてしまわれました。この出来事に続いて語られたのが「二人の息子のたとえ」です。「今日、ぶどう園に行って働きなさい」との父の求めに対して返事だけ有言不実行だった次男と、後で考え直した長男。
みなさんはどちらのタイプでしょうか。例えば、生活の中で「神様は自分にこのように求めておられる、願っておられるのではないか」と気付かされることがあるでしょう。その瞬間には、「そうだ、その通りだ、アーメン」と思うのですが、実際の行動に反映されないということを、幾度も繰り返してきたものではないでしょうか。「種蒔きのたとえ話」でいえば、石地に播かれたもの、茨の中に播かれたものだな、と変わらず仕舞いの自分を情けなく思うことがあります。

「み言葉を行う人になりなさい。聞くだけで終わるものになってはいけません」。「行いの伴わない信仰はそれだけでは死んだものです」(ヤコブの手紙)。ルターは、この書を「藁の書」と酷評しましたが、決して信仰よりも行いの方が重要だと言っているのではありません。信仰さえあれば(洗礼さえ受ければ)何をしても赦されるのだという誤った理解への批判が込められているのです。この書を読むと、率直にうなずく言葉が沢山あります。しかし、それだけに、信仰と行いが必ずしも一体ものとなっていない、返事だけで終わった弟の姿とは、つくづく自分のことだなと痛感するのです。

長男の方は、最初は父の期待には応えようとも思わずはっきり拒絶するのですが、「後で考え直した」。これは「悔い改め」を示唆する言葉です。「悔い改め」とは、後になって悔やむことを言うのではなく、後になって「ああそうだったのか」と、そこで主の恵みというものを味わうということです。だからこそ、悔い改める必要のない人など一人もいないのです。
主イエスが、弟子たちの足を洗われた時、こう言われました。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる。」(ヨハネ福音書13章7節)私たちは、いつも神様の思いというものを、後になってこそ知り得るものです。たとえ遅かろうと、不十分であろうと、悔い改める心を見、主は決して侮ることはありません。

31節で、主イエスは言われました。「はっきり言っておく、徴税人や娼婦たちの方が、あなたがたよりも先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信じず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。」
徴税人や娼婦たちは、ヨハネの言葉を信じました(31節)。つまり、救い主がやって来られるというその言葉を聞き、「悔い改めた」のです。その悔い改めとは、徴税人や娼婦として生きることの罪深さに気づいて悔いた、恥じた、ということではありません。徴税人や娼婦、このようにしてしか生きてくことができない誰にも理解されない自分の嘆き、苦しみの現実を、神は顧みて、これまでも、これからも限りなく憐れんで下さっているということを知ったということです。

さて、優れているのは兄か弟か、そういう問い方をすれば、この聖書の箇所はそれまでの広がりしか持ちません。しかし、福音とは、もっと豊かなものです。兄も弟も、最初から一貫して父に従うことはできなかったという点で等しく、なによりいずれも父の息子である、という点において等しいのです。兄か弟かではなく、兄も弟も、です。そこで、わたしたちはもう一人の隠れた登場人物がいるということに気付きたい。「ぶどう園へ行きなさい」という父の求めに、「嫌だ」と言いながらも、しかし考え直して向かった兄の姿、そこに私たちは主イエス・キリストを見出すことができます。ゲッセマネの園で、「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26章39節)と痛切に祈り、しかし、そこで御心に従っていったイエス・キリストという長兄の存在です。わたしたちは皆、この方の受けた傷により、この方が罪と死を絶望その身に引き受けて下さったがゆえに、今日、神の子として、赦され、愛されたものとしてあるを得ています。わたしたちが、ただその恵みの上に立たせて頂いている兄弟であり姉妹であるということを思う時、互いに信仰にも行いにも欠けを抱えつつも、共に御国に生きる希望を分かち合うことができるのです。

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