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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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主イエスは、弟子たちに聖霊を与える約束をされました。その約束の時、聖霊について「別の弁護者」と言い表しました。わたしたちには弁護者が必要なのです。誰に対するよりも神である方に対して。私たち自身は、御前に己の正しさを保証する何ものをも持ち合わせていません。ただイエス・キリストの命を懸けた執成しがあればこそ、ただキリストの名によってこそ、欠け多く、背き多き罪人でありながらも、私たちは赦され愛された者として、ありのままに御前に立てるのです。

このキリストが地上から去る時が来たことを告げられた時、弟子たちは戸惑いました。どこに行かれるのかと心細く尋ねる弟子たちでした。あるいはまた、主イエスが天に挙げられていく時、虚しく空を見上げ続けていたのでした。自分たちはもはや「みなしご」になってしまうかと、不安の雲が心を覆いました。しかし、主イエスは確かに別の弁護者として聖霊を約束されたのです。

しかし、客観的事実として聖霊を見た人、触れた人はいません。だから聖霊は、掴みどころのない得体の知れないものと思えてしまいます。けれども私たちは、聖霊によってこそ、キリストの言葉を思い起こし、神の愛と赦しを思い起こすことができるのです。聖霊抜きであるならば、どんなに熱心で敬虔な「信仰生活」であったとしても、それはどこまでも空しい迷信であり、自己欺瞞に過ぎなくなってしまいます。その身はみなしごとしてさまよっているのです。 私たちが神を「天の父よ」と親しく呼びかけ、自分を「愛された子」と信じ、感謝と信頼をもってこの交わりに生きられるのは、ただ聖霊によるものです。聖霊降臨日(ペンテコステ)のシンボルカラーは赤色です。聖霊は目には見えず、手で掴めないものですが、しかしそれは赤色よりも確かに、そして私たちの小さな手で掴めないほどの豊かさに満ちた存在としてあるのです。

聖霊の働きは私たちに「御利益」をもたらしはしないでしょう。私たちの自分本位な願望を実現へと導き、行き詰った状況の中で物事を不思議に引き合わせてくれる力でもありません。もしそんな便利な力が本当に働いているのだとすれば、それは聖霊ではなく、「聖霊を装った悪霊」と言った方が近いのかもしれません。なぜなら、悪霊は私たちを自分本位にさせ、自分の思いに縛り付け、「何が神の御心であるか、何が善であり。神の喜ばれることであるか」(ローマ12章2節)を考えさせないからです。聖霊は、私たちをキリストに立ち返らせるのです。すなわち、受けることよりも与えること、自分を明け渡して愛することに従順であった方を思い起こさせ、この愛によって私たちを踏み出させる力です。自分の思いに縛り付けられるのではなく、むしろ自分を明け渡す自由を与えるのです。主が愛して下さったように、私も愛するとされていく、それが聖霊によって生きている証しです。

先日、教会員のAさんの結婚式後のパーティで「洗足」が行われました。夫婦としての最初の一歩を踏み出すに当たり、主イエスがして下さったように、互いの足を洗ったということは一生忘れられない経験であったでしょう。主イエスは弟子たちに聖霊を与えるとの約束を、彼らの足を洗った後に告げました。「私があなたがたの足を洗ったように、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」

洗足された弟子たちは皆、脆い者たちでした。イエスを裏切り、否み、自己保身に駆られて逃げ出してしまうのです。そんな脆い弟子たちが互いに足を洗い合って生きること、つまり互いに愛し合って生きることを「掟」として与えたのです。14章でイエスは、何度もこの掟を守ることを求めるのです。 なぜなら愛し合おうと願い、自分を明け渡していこうとする時、そこで主イエスが自分たちを愛してくれた事実を思い起こし、またこの方がなおも今日、自分たちの間で生きておられる事実を経験することができるからです。

「さぁ、立て。ここから出掛けよう」とイエスは呼びかけます。イエスが出かけてゆかれる道、それは十字架の道です。それは私たちを愛する愛によって自分を捧げるという道です。この言葉はイエスの独り言ではありません。弟子たちもまた、洗われたその足で踏み出していくよう招くのです。

愛し合うこと、それはキリスト者にとって「掟」です。普通、掟を破れば罰が与えられます。しかも、愛し合うことが「最も重要な掟」であると言われるならば、それを守ることが出来ない罪に対しては、最大の裁きが下されるということでしょう。そしてまさにその裁きとは、十字架で主イエスが既に身に受けて下さったものなのです。ですから、私たちはこの掟を恐れに縛られながら守るのではありません。いつも聖霊によって十字架の贖いに立ち返らされ、主の赦しと愛の言葉を刻み直し、ここから立ちあがり出掛けていくのです。

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