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主イエスが、サマリアとガリラヤの狭間を通っていったからこそ生まれた一つの出会いがありました。サマリア・ガリラヤ両地方から忌み嫌われ、排除された人々が小さなコミュニティを形成していました。長年対立してきたはずの両人種が、皮肉にも、同じ病によって一つとされていたのです。彼らはイエスを見た時、遠くに立ったまま憐れみを請いました。主イエスに近づきたい、でも自分たちは近寄ってはならない、そんな感情の狭間にも置かれていたことでしょう。

17章21節で奇しくも主イエスはこう言っています。「実に、神の国はあなた方の間にあるのだ」。サマリアとガリラヤの狭間に隔離された彼ら、主イエスに近づきたいが近づけない彼ら、まさにその地理的、精神的狭間にあって、神の国の姿が現される、そんな出来事がここに記されています。

彼ら10人は、主イエスに言われた通り、祭司に自分たちの体を見せるために出発しました。まだ癒されてもいない見るからに辛そうな状態のまま。彼らは、決して軽やかな足取りで祭司のもとに走ったのではなく、ある者は必死な面持ちで、ある者は疑い戸惑いの足取りで、ある者は溜息をつきながら。皆不安に満ちていたと思うのです。ただ主イエスのお言葉だから、出かけたのです。思うに、信仰生活とは、まさしく、こういうものなのだと思います。喜びに溢れ勇ましく確信に満ちて、というよりも「今日は気が進まないな…、不安だな…、この先に光はあるのだろうか…、でも主の言葉を胸に納めて一歩、歩いてみよう」。実に、私たちはこのようにして不思議と歩み続けることができ、希望を信じ、赦され、気付かされ、今日ここまでやってきたのではないでしょうか。キリスト者とは面白い生き物でして、一見愚かで疑わしい限りの聖書の言葉に拠って行動を起こしてきた人々なのです。何がどうなるか分からない、その不安や恐れや疑いを抱えたまま、しかしその御言葉に拠って動き始めてみる時、そこに出来事が生じてきたのです。

さて、10人全員が、祭司のもとへ向かう途中で病が癒えました。しかしその解放の喜びを携えて主イエスのもとへと帰って来たのは、たった一人でした。90%の人間にとっては、感謝すべき恵みというよりも、単なる「ラッキー」で終わってしまったのかもしれません。その中、ただ1人帰って来たサマリア人、しかも大声で神を讃美しながら帰ってきました。

主イエスは彼に告げました。「立ち上がっていきなさい。あなたの信仰があなたを救った。」10人全員が「癒された」のですが、「救われた」と告げられたのは1人なのです。救いとは何か。すなわちそれは、「心から神を賛美することができる」ということです。

主日礼拝へと帰って来て、私たちが一つとなって賛美を捧げる時(集うことのできない人たちを執り成しつつ)、そこに、私たちの人生の意味そのものがあるといっても過言ではありません。なぜなら「主を賛美するために、民は創造された」(詩編102)からです。神を賛美することを失う時、わたしたちは自分自身を失ってしまう、そう言えるのではないでしょうか。

キリスト者は、喜びの時だけでなく反対にとても歌など歌えないと思う悲しみの時、不安の時、疑いの時にさえ、主イエスに近づいて讃美するのです。

愛するものと結ばれる時だけでなく、愛するものを失うという時にさえ、ネクタイの色がシロでも黒でも、主を讃美するのです。そこで自分が生きるにせよ死ぬにせよ神のものであることを知るのです。

「歌う」は「訴える」という語源が同じだそうです。自分が人生の狭間で見出され愛され赦されている恵みへの感謝を、主の前に歌い注ぎ出し、またこの喜びを人々に訴え続けていきましょう。

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