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この物語は「弟子の覚悟」という標題がつけられていますが、イエスに従いたいと思った人、あるいは従いなさいと言われた人とイエスの問答が記されています。

一人目の人は、「どこへでもついていきます」と叫びました。するとイエスは「狐や鳥には巣があるが、自分には枕するところもない。それでもついてくるか」と言われたのです。

二人目の人には「従いなさい」とイエスの方から声をかけます。ところが、この人はお父さんが死にかけているのです。「葬儀を済ませてから参ります」と答えたのです。それに対してイエスは「死者のことは死んでいるものに任せなさい。あなたは神の国を言い広めなさい」と言われたのです。

3人目の人は「そのまえに家族にいとまごいの挨拶をしてきます」と言いました。するとイエスは「後ろを振り返るものは神の国にふさわしくない」といわれたのです。

結論は書いていないのですけれど、彼らはこう言われて、イエスに従えなかったということでしょう。けれどもこういうふうに覚悟を問われたら、私たちは誰もイエスの弟子となり得ないのではないでしょうか。

父上が死にかけているのですから、葬儀を済ませて、イエスに従ってもなにも悪くないだろうと思いますし、イエスに従うまえに、最後に家族に挨拶をしても良いのではないでしょうか。常識的に考えれば、彼らの方が正しくて、イエスの方が間違っているように思います。それが「覚悟」であるというなら、わたしたちは誰一人イエスの弟子とはなり得ないのです。どこか読み込むときに勘違いをしているのではないでしょうか。

これらの物語は3つで一組になっています。すると、最初にある話は他の二つの違うように思いますが、それぞれに通底するメッセージがあるのです。だから、イエスが本当に何を言いたいかは一人目との問答を深く考えると判ってくるのです。

ここでイエスは自分のことを語っています。キツネには穴があり、鳥には巣がある。しかし、自分には枕するところもないというのです。「枕するところもない」と訳されているのですが、実は、「人の子は枕するところを持たない」と訳す方が良いのです。つまり、イエスは自らの意志として「穴」や「巣」を持たないということなのです。

巣というのは本拠地のことです。人間で言うと家であり、家族であり、家庭です。ここで先週の話を思い起こしてほしいのです。イエスは旅をしています。イエスは旅人なのです。帰るところのある旅人でなく、ひたすら前に向かって生きていく旅人です。十字架に向かって歩む旅人なのです。

イエスは何に頼って旅をしたのでしょうか。神です。神のみです。すると、神が働いて下さって、泊まるところ、食べるもの、休むところを与えて下さったのです。必ずしも家に泊まれたというわけではないでしょう。むしろ本当に「枕するところ」もなく、野宿をしなければならなかったこともあるでしょう。けれども、イエスの十字架への旅は人に頼るものではなく、金に頼るものではなく、家族に頼るものでもありませんでした。ただ神にのみ頼る旅だったのです。

これが十字架への旅であるということを忘れてはいけません。イエスがこの3つの話でこだわっているのは、このことです。どんなことにも優って、神が共にいて下さるというのです。それがイエスの旅を支えているのです。

行く先の判らない旅ほど不安なものはありません。イエスの弟子たちはまさにそういう旅をしなければなりませんでした。教会が迫害を受けて、自分の街にいられなくなり、逃げ出していくのです。行くあてもなく、どこまでの旅かわからない、社会的な関係、縁故を頼るけれどもそれも功を奏さない、そして石を枕に野宿することもあったでしょう。そんな時、思い出したのがこのキリストのことばなのです。キリストの十字架への旅、「枕するところもない」ような旅を守り導いて下さったのは神なのです。

とぼとぼと歩くその道、実は、そこには神が共にいて下さっている、神が導いて下さっている、あなたの人生の旅は、神が導いて下さるのだ、その事を信頼していきていきなさいとイエスは弟子たちに語ったのです。

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