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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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教会の本質をあらわす言葉に「交わり」があります。置戸宣教協力も「交わり」において行われます。感謝です。

長年親しくさせていただいている老牧師がいます。いろいろ教えられてきました。牧会のこと・教会のこと…。ある時、教団の中で会衆派教会の特色は「交わりだ」と教えられました。長老派や改革派が信仰告白や職制を重んじるのに対し、組合教会は「交わりだ」と言われるのです。置戸宣教協力礼拝を共に守り改めさせられております。

さて、今朝の神の言葉は5千人の共食の奇跡物語です。実はこの物語。4つある福音書に唯一共通する奇跡物語です。

「ティベリアス湖」はガリラヤ湖の別名です。その湖畔にティベリアスという都市があったのです。そこは27年頃、ヘロデ・アンティパスが建てた人工の植民都市でした。植民都市建設はローマ帝国の政策によってなされました。そのことについてユダヤ人はよく思っていなかったようです。ティベリアスの西岸は見晴らしのよい高台にありました。といいますのもそこからは町の様子が良く見えるのです。帝国に抵抗するユダヤ教過激派「ゼーロータイ」がそこを拠点としていました。その背景にはメシア待望があったのです。時勢はとても緊迫していました。紛争の激流にあって主イエスは山に登られるのです。

山にもイメージがあるのです。山は旧約の流れで「聖なる場・神の啓示の場」です。モーセの出エジプトはシナイ山での啓示ですし、旧約の神観を決定づけたと伝えられるエリヤ物語はカルメル山上でバールの預言者との対決でした。他、山に関わる重要な個所が数多くあります。ヨハネ伝はその伝承を受けているのでしょう。イエスは山に昇り弟子たちと一緒に座られます。

時は、4節「ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた」です。過越しの祭りがすぐそこです。多くの人々が 巡礼に向かっているのです。その流れが山の上から伺えます。一方イエスの周囲にも多くの「群衆」が集まってきます。この群衆は巡礼に向かう人々の群れではなく「極貧民」です。巡礼者とは違う社会的コンテキストを持ち合わせる単語です。その群衆たちは押し寄せるようにイエスへ向かってきます。そこでイエスはピリポに問いかけるのです。
「この人たちを食べさせるために…」。
そこには主イエスの意図があったのです。6節「こういったのはピリポを試みるためであって」と記されています。実はここにヨハネ伝の主義主張があるのです。ヨハネ伝の特徴は「神の御心と人間の判断は違う」です。

次にフィリポはイエスに応えます。「めいめいが…足りないでしょう」。
ここにもメッセージが込められています。それは「フィリポは計算している」です。「これだけでは足りないだろうと…」。不測の事態に躊躇しているのです。それはそのはず、私たちだって同じようなことがあったなら同じように思うのではないでしょうか。「200デナリオン」もそうです。足りないとの不足です。その判断です。しかしそこには神の判断と人間の判断は違うという神学が反映されているのです。

次にアンデレが登場します。彼は大麦のパン5個と2匹の魚を持っている少年を指します。そしてイエスに伝えるのです。そこにも「こんなちょぴっと」という判断が働いているのです。「これでは無理だ…」それが弟子の判断となっているのです。
しかし主イエスはそれを覆すように命じられます。人々をそこに座らせるように言われるのです。そしてパンを取り、感謝の祈りを唱えてから人々に分け与えられます。魚も同じようにして分け与えられます。この「パンを取り、感謝の祈りを唱え」は後の聖餐制定語の核になります。ヨハネ伝では「裂く」という言葉が出てきませんが、身を裂くのはイエスの体ご自身です。「見よ世の罪を取り除く神の子羊(T;29)」。主は私たちの罪のために命を差し出され身を割かれたのです。それだけではなく、「欲しいだけ分け与えられた」といわれています。ここにポイントがあります。神の側が一方的に差し出されたのです。そこが大切ではないでしょうか。続いて、満腹にある人々の前で「残ったパンくずを集めなさい」と命じられます。弟子たちが集めると、パンくずは12籠に一杯になったといいます。この「籠」。ただの籠ではなく行商人が商売道具を持ち運ぶ背負い籠のことだそうです。そして12は完全数です。その背負い籠=<満一杯>ということでしょう。背負い籠は、弟子たちがこれからこの物語を受けて伝道に出かけていくその恵みに詰まった背負い籠の姿が重ねられています。恵みが恵み重ねて、めい一杯。いっぱいみ言葉を運ぶ。福音を伝えに行く。そういう情景がここに満ち満ちているのです。
しかし弟子たちの見ていたのは、「5つのパン魚2匹で足りるわけない」です。自分の不足に目をとめ、現状でとどまっているのです。私たちも信仰にあって、不足に、神様に委ねきれないことが生じます。しかしそこでこそ主は恵みの業を起こされるのです。
そこであらためて受け止めたいのは宗教改革者M.ルターの姿です。宗教改革の嵐吹き乱れる中、信仰の危機にあってルターは「私は洗礼を受けている」と自分に言い聞かし、神の決断に身を委ねたと言います。足りないことにとどまるのではなく、証しを立てる信仰の姿にルターは立ったのです。

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