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「この病気は死で終わるものではない」(4節)。主イエスは、病に苦しむラザロを即座に訪ねて癒そうとはされず、あえてその場に留まりました。一昨年の北海教区年頭修養会でお迎えした陣内大蔵牧師が、そのコンサートの中で紹介して下さった印象的なエピソードがありました。中学入学直後に入院し、4年後に亡くなった女の子が、その闘病生活の中でお母さんに伝えた言葉の一つ、「罪って、絶望することだよね」というものでした。これと関連しますが、『死に至る病』を著したキェルケゴールは、「死に至る病とは“絶望”のことである」と言いました。自分という存在の可能性も、必然性も見いだせない絶望という状態です。
「罪」と言うと、とかく「悪いこと」という印象を抱きやすいのですが、その真相は「哀しみ」「空しさ」ではないでしょうか。絶望には、自分の過去・現在・未来を拒絶し、引いては自分を愛し生かす神を拒絶する底知れない哀しみがあります。どこにも自分という存在の根を下ろすことができず、命の渇きの中を生きざるを得ない、その絶望という「死に至る病」を、実は私たち皆が神の前に患っていた(いる)のではないでしょうか。

主イエスは言われました。「この病は死に至らず(文語訳)」。それはつまり、「ここには絶望はないのだ」ということです。ハイデルベルク信仰問答(1563年)の第1問答にはこうあります。
問 生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか。
答 わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。
生きる時、死ぬる時のただ一つの慰め。どんな慰めも露と消え、もはやどこにも希望がないように思えるその時にもなお、わたしの一切を包んでいる慰めとは何か。それは、わたしがイエス・キリストのものであるということ、すべてのことがこの方によって受け止められていることです。「ラザロ物語」の物語っていることは、まさにこのことです。

3月中旬、元江別わかば幼稚園の新園舎完成感謝礼拝で奉仕させて頂いた折、園児たちが「球根の中には(讃美歌21−475番)」を元気よく歌ったのに内心驚きました。3節の歌詞は、「命のおわりは命のはじめ、おそれは信仰に、死は復活に・・・」です。幼い子どもたちが、「命の終わり」「死」を口にしているのです。違和感を抱く親御さんがおられるかもしれないなと思いつつ、命の終わり、死の時が確かにあるということ、しかしそれが神の愛にあって終わりでは決してない、という希望を歌えるということに感動しました。球根に花が秘められているように、病苦には、この悲嘆には、神の愛が秘められている。やがてこの愛が現されるに至るのです。「絶望はここにはない」と主は宣言されるのです。

「ラザロは二度死んだ」と言われます。主イエスによって、一度は甦ったけれども、やがては世を去ったのです。つまり、甦りという現象それ自体に真の慰めはない、ということです。本当に大切なことは、生きるにせよ、死ぬるにせよ、神がこの私を見失わず、とこしえに愛し、喜んで下さっている事実が現されること。それこそが私たちの至るべき終着点です。

二日が経過して、主イエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに呼び掛けました。しかし、ラザロのいるユダヤ方面に立ち入ることは身の危険がありました。怖気づく弟子たちに檄を飛ばしてトマスが言いました。「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(16節)。「たとえ捕まって殺される結果になっても、我々は主の弟子じゃないか」と実に勇ましい一言。そして、確かに、この後、主イエスはユダヤ(エルサレム)で捕えられました(18章)。しかし、そこにはあの時、「一緒に死のう」と勇んだトマスの姿はありませんでした。

やがて、ヨハネ福音書20章には、主イエスの復活を信じられないトマスの姿がありました。彼一人だけが、「この指を釘跡に、またこの手をわき腹に入れてみなければ、信じられない」と頑なに主の復活を受け入れることができなかったのには、あの時、勇ましい言葉を口にした自分への恥と、主に対する負い目があったことでしょう。イエスの肉体の真偽への疑いよりも、自分自身への絶望がそこにはあったのです。「自分だけは、主の復活を信じてはいけない
・・・・のではないか」と。しかし、主イエスはその時、彼に告げました。「信じないものではなく、信じるものになりなさい」(20章27節)。この言葉にはトマスへの深い赦しがあります。そしてトマスは、指先だけでなく、その存在すべてを復活の主イエスに包まれたのでした。「信仰」とは、「自分には信じることができる」ということではありません。「こんな私さえも、主を信じることが赦されている」という感謝に基づくものです。トマスの心は慰めによって解かれ、そして一つの告白がこぼれ落ちました。「私の主、わたしの神よ」。私たちは皆、トマスの双子(ディディモ)として、この告白へと招かれている一人なのです。

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