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青春の日々にこそ、お前の創造主を心に留めよ
世間は年齢というものさしで人を区別することが多いものですが、信仰の観点から言えば問題は年齢などではなく、その人が闇の中を歩いているのか、神の愛の光の中を歩いているのかです。「青春とは人生のある期間ではなく心の持ち方を言う…神からの美、希望、喜悦、勇気、力の霊感を受ける限り君は若い。霊が絶え、精神が皮肉の雪に覆われ、悲嘆の氷に閉ざされる時、20であろうと老いる。頭を高く上げ、希望の波をとらえる限り80であろうと人は青春にして已む」(サムエル・ウルマン「青春」抜粋)
いわば聖書の言葉は若さの源、信仰こそ究極のアンチエイジングです。何歳であろうとも、青春の日々に創造主を心に留め続けたいと願います。

若者よ
さて、ヨハネの手紙の著者については、相当古くから主イエスの弟子でゼベダイの子ヨハネ(使徒ヨハネ)のことだとする主張がありました。使徒ヨハネといえば、ペトロ・ヤコブと並ぶ弟子三羽烏です。やがて、ヤコブもペトロも殉教したのですが、ヨハネだけは生き永らえたようです。
ヨハネの手紙は、紀元1世紀末に書かれたものと考えられていますので、本人が著したものだとすれば、彼は十分老齢に達していたことでしょう。もっとも、これは本人が書いたのではなく、彼に端を発するヨハネ共同体が、彼の名で書いたという主張を無視する訳にはいきません。
いずれにせよ、この手紙は度々「子どもたちよ、わたしの子たちよ、若者たちよ」と呼び掛けます。つまり次の世代へのメッセージとして書かれていると言えます。年老いた使徒ヨハネが、人生の最晩年に際して、主イエスの恵み、神の愛を思い起こし、心に希望を満たしながら、次の世代のために手紙をしたためている、そういう想像豊かな読み方が許されると思います。

神の愛にゆえに生き生きと
老ヨハネの手紙、それはしかし大変若々しく力強い言葉です。それは「ここに愛があります!」(10節)という宣言に特に感じられます。肉体的な衰えは避けられませんが、イエス・キリストにあって永遠の命に生かされる平安を満たす時、死への諦めではなく、感謝と力が溢れてきます。生かされてある限りこの命を精一杯、主のために捧げ用いて頂こう、愛に生きようではないか、という気概がこの手紙全体には溢れています。この手紙を書いた人物は、まさしく人生の青春を生きているのです。「老いては子に従え」なんていうこの世の掟を破っている、言うなれば「老いては主に従え」なのです。
「老年とは、価値の再検討の時期であり、束の間の価値から永続的な価値への前進的な移行期である」(ポール・トゥルニエ「人生の四季」)。「ヨハネ」にとって人生における本当に価値のあるものとは、「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によってわたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛が私たちに内に示されました」(9節)ということに尽きるでしょう。わたしたちが本当の意味で生きるために、神はその独り子をお与えになるほど愛してくださった、ただこの理屈抜きの愛の事実に、永遠の価値、永遠の命の泉を見出すのです。その上で、ヨハネの手紙は繰り返し呼び掛けてきます。「互いに愛し合おう」「神がわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」と。若いとか、老いているということは問題ではなく、神がわたしを、あなたを愛して下さっているという真理を互いに確かめ合い続けて生きる時、その人は、臆病にしり込みするのではなく、また妬みや憎みに縛られるでもなく、愛によって前に進みゆくものとされるのです。神の愛が今日生きている、イエス・キリストの復活にその事実を見る人は、新しい言葉を語るのです。老いも若きも、諦めや後悔の言葉ではなく、主にあって希望と信頼を語る、憎しみや裁きの言葉ではなく、主にあって赦しと平和を語るのです。

「死」という掟さえ破って
「神を愛する人は、兄弟をも愛するべきです。これは神から受けた掟です」(21節)。愛することはもはや掟、キリストに結ばれて生きるあなたには愛さないという道はもうないのだよ、と言うのです。
主イエスは、当時の律法学者の評価とすれば、掟破りの常習犯でしょう。働いてはならない安息日に人を癒し、罪人たちと交わり、神殿を打ち壊せと言い、神の子と自称した赦し難い罪人として、主は十字架で抹殺されました。しかしそれらはすべて、死を覚悟の上で、律法の文字や形式に縛られることなく愛に生きたということ、人々に神の愛を神の国を示し与えた方であったのだということです。律法という掟を破って、あるいは臆病や恐れを超えてその全存在をかけて、神の愛を示し与えて下さった主イエスその方は、今、死という掟をも破って生きておられます。この方を信じ、この方の愛によって恐れから押し出されて生きる時、その人の姿にイエスはおられる、その人の姿にイエスは働いておられるのです。「この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。愛には恐れがない」(17、18節)

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