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主イエスの復活を告げ知らされ戸惑った2種類の人がいました。祭司長たちであり、弟子たちでした。番兵たちから墓で見聞きしたことの報告を受けた祭司長たちは、イエス復活の事実を隠蔽し、デマを広めようと画策しました。買収した兵士たちを使って、「夜中に弟子たちがやってきて、我々が寝ている間にイエスの遺体を盗んでいったのだ」(13節)と偽の証言をさせたのです。思えば、イスカリオテのユダは、銀貨30枚と引き換えに、主イエスを祭司長に引き渡しました。同様の手法で、今度は主イエスの復活という事実が揉み消されようとしていました。十字架と復活を巡り買収行為があったというのは醜い話であると共に、私たちにとって決して他人事ではありません。私たちもまた、その信仰の生活において、様々な誘惑(私たちを神の愛から引き離そうとする力)に晒されていますが、そこで自分の目先の都合のために、キリストを、神の愛を、信仰という賜物を、安々と売り渡してしまっていないかどうかを問われています。

さて、弟子たちもまた主の復活の知らせに戸惑いました。疑いや不安を胸にしながら、指示されたガリラヤの山を登ったのでした。「もし本当に、その方が主イエスならば、裏切り、逃げ出してしまった自分たちは一体どんな顔でまみえることができるだろうか。自分たちに裏切られた主のまなざしはどんなだろうか」、山を登る弟子たちの表情は、決して明るくありません。振り向けばガリラヤ湖が眼下に広がっています。そこは、弟子たちが主イエスと出会い、主イエスに従い始めた場所。主イエスが自分たちを、いわば「ふりだし」へと招かれたことを感じたでしょう。

ガリラヤの風香る丘で、主イエスにひれ伏す弟子たち。「しかし、疑うものもいた」(17節)。それは復活の主に対する疑いであると共に、いま主の前にひれ伏している自分自身、主の弟子足り得ない自分自身への疑いであったとも言えるでしょう。けれども、主イエスは、彼らを叱責したのではありません。むしろ、「疑いの中で、よくぞやってきた!」と大いに喜んで下さったのです。主に対しても、自分自身に対しても疑いを拭えない、そんな彼らを、それでも愛し、招いてくださっているのです。これは主イエスとの再会というよりも、主イエスとの本当の出会い、本当の始まりなのでした。

教会というところは、このガリラヤの丘です。私たちは、心からの感謝と賛美を携えてここにやって来る時もあれば、主への不信頼に覆われながら、それでもやって来る時もあるでしょう。共に祈り、讃美しながらも、心には、なお疑い、恐れ、悩みが暗く覆っている時があることでしょう。しかし、そのような中にも「よく来た!」との主の招きと喜びがあるのです。礼拝は、私たちの立ち返るべきふりだしであり、主イエスとの「約束の場所」です。ここで、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(20節)との主イエスの約束を確かに受け取るのです。

山を登った弟子たちは「11人」(16節)でした。そこにユダの姿はありません。これは「12−1=11」という引き算で受け止められる話ではありません。この欠けた数字には痛みがある、キリストの痛みがあると思います。主イエスは、十字架でユダのためにも死なれたのです。ユダをも深く愛し、赦していたという事実を、差し引くことはできないのです。

この後、弟子たちは、マティアという人物を加えて再び12人となりました(使徒言行録1:26)。それは単に、不足を補充したという話ではなく、ユダを含め、一人ひとりのために主が味わわれた苦しみ、そこにある愛の事実を欠かすことなく、この愛を互いに満たしながら、一つとなって主に託された務めを担っていこうという祈りと決意であったのです。

定期教会総会において、「キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たす」(コロサイの信徒への手紙1章24節)とのみ言葉を2017年度の年間聖句に定めました(北側入口掲示板をご覧ください)。
これはキリストの十字架の苦しみが欠けていた、不十分だったということではありません。むしろ、私たちの交わりの中で、キリストの苦しみが欠けていないだろうか、ということが問われています。あの人のためにも、この人のためにも主の苦しみがある、主の愛と赦しがあるのだという事実に気付き、深く尊びながら、互いに満たし合いつつ、一つの体を形づくっていきたいと思うのです。

主イエスは弟子たちをガリラヤに招き、そしてそこから彼らを派遣されました。この場所に留まり、主の愛を自分たちだけのものとして終わらせず、その愛を必要としている者に告げ知らせよ、と。主の愛をまだ知らぬその人のためにも、主は十字架で苦しまれたのでした。かつて、ガリラヤの丘で5千人の群衆が満たされたように、互いに主の愛を分かちあい、満たしあう務めを、今日私たち一人ひとりが託されています。

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