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今日の箇所には、ナザレに着いた後にイエスが説教を語られたということが書かれています。そして、イエスが語られた言葉を聞いたナザレの人々は大変に驚いたと続けられています。ナザレの人々は、イエスの語る知恵に溢れた言葉と癒しの奇跡を見て驚き、イエスが特別な存在であるということを認めたのです。しかし、次の瞬間彼らは「イエスに躓いた」というのです。

ユダヤ教のラビとして専門的な宗教教育や訓練を受けていない。そんなイエスが、一体何の権威を持ってその言葉を語っているのか。奇跡を行っているが、イエスはマリアの息子で、兄弟や姉妹もいるただの人間ではないか。神や天使のように特別な存在ではない。一体何の力で持ってそのような奇跡を行っているのか。ナザレの人々の拒絶には、このような意味合いが含まれているのです。

故郷の人々は、イエスの生い立ちも家族構成も、職業も、イエスについて良く知っていたのです。よく知っているあの大工が、家を突然飛び出したかと思うと、伝道者として帰ってきた。そして、いきなり力ある業を行い、知恵の深い言葉を語るようになった。このイエスの突然の変貌を、ナザレの人々は受け入れられなかったのです。

マルコはこのような物語をわざわざ福音書に記してナザレの人々を批判しようとしたのでしょうか。そうではないと思うのです。ここでマルコが語ろうとしているのは、故郷の人、親戚、家族たち、どれだけイエスに近い人でも、その言葉や思いをいつも抱きながら生きて行くことはできない、イエスを理解して、イエスの存在を受け止めていくことはできないのだということを語っているのです。

私たちは自分を大切に思い、愛してくれる人の気持ちを受け止めることができないことがあります。それどころか、自分を大切に思ってくれる人を煩わしくさえ思ってしまう時があります。マルコは私たちの本質的な心のあり方をここで描き出しているのです。辛いことがあり、痛みがあり、理不尽な思いをする時がある。日常の様々なできごとに翻弄されて、愛するとか、愛されているとか、そんなことは馬鹿らしいと思ってしまうことがある。私たちは、神が、私たちを愛して下さっているということから離れていってしまうのです。

今日の箇所の結びには、このように書かれています。「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた」

イエスを受け止めなかったナザレの人々の中で、ごく僅かの、心からイエスの愛を信じ、信仰を固く持って生きた人だけが癒された。表面を読んでいくとそのようなことが言われているのだろうかと思います。そうであれば、私たちは到底癒されない存在のように思います。そうではないのです。

愛情を持って語ったけれども、自分を受け入れてくれなかった。差し伸べた手も払いのけられた。全くもって自分の思いを理解せず、誰も敬ってくれなかった。そんなナザレの人々に対して、それでも、イエス・キリストが手を差し伸べ続けて下さったということがここでは言われているのです。

聖書全体を通して、私たちに語られるのは、自分の傷や破れの中で神を見失い、離反していき、愛に躓く私たち人間に、手を差し伸ばすイエス・キリストです。私たちを探し続け、招き、私たちに必要な物を備え、私たちに生きる根拠を与えて下さるイエス・キリストです。神は、私たちを日曜日ごとに礼拝へと招き、私たちの傷ついた心に触れて癒そうとして下さるのです。私たちが忘れようと、裏切ろうと、敬わなくとも、イエス・キリストは、私たちをいつも愛し続けて下さるのです。私たちはここで、イエス・キリストの御手に触れて、もう一度愛することの大切さを取り戻して、この世へと出て行くのです。

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