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エリコの町を出発し、いざ十字架の待つエルサレムへ進み出す主イエスを呼び求めた人バルティマイ。その名は福音書に記され覚えら続けてきました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください!」。周囲に憚ることないその叫びに主イエスは立ち止まり、彼をご自分のもとに呼び寄せられました。
「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。主イエスの言葉によって、見えるようになったバルティマイの行き先は、ただ主イエスの進んでいかれる後でした。バルティマイにとって、「見える」とは「主に従う」ということにほかなりませんでした。

単に視力の回復の物語ではありません。バルティマイとって「救い」が視力の回復を意味だけならば、視力ある人は全員救われているのか、という話でしょう。主イエスは、「信仰」と「救い」という次元の言葉で語っています。バルティマイの身に起きたことは、信仰という視力によって救いを生きて歩いていくということでした。
「救い」とは、神がこのわたしを必ず御手に包み、何があっても何をも妨げとせず、その手からこぼれ落ちないように守り抜き、愛し極めてくださろうとしているその現実です。神がわたしたちを守るべく闘って下さっている現実のことです。それは現在進行形のものであり、やがて成し遂げられるという意味で未完了の業です。バルティマイは、この救いの事実を見た時、見ただけで終わらず、その只中を歩み始めたのです。

「こんなわたしでも救われるのでしょうか」。そう問われたことが何度かあります。深刻な問いです。死の恐れの中で、あるいはかつてない人生の躓きの中で、とりかえしのつかない後悔の中で、「自分は救われるのか」と命の破滅的危機を覚えての問いです。わたしは答えます。「救われます。あなたのことを何があっても愛し守ろうとされる神様の真実さを信じるところ、救いは訪れています」。研鑽された高尚な信仰が救いを掴み取るのでは決してありません。日々、揺らぎやすく、塞ぎやすいこのわたしに対する主の真実さに飛び込む時、その人は救いを生きはじめているのです。この救いには、誰かと比較して遅い早いはありません。その点、バルティマイは、最後の最後だったのだと言えるでしょう。エルサレムに向かって出発されるその間際で立ち止まってくださった、そこに主の真実さは見出されたのです。

「あなたの信仰があなたを救った」。この主イエスの言葉は、その場限り・その場しのぎのリップサービスではありません。もし、バルティマイの「信仰」といわれているものが、単に一時の感情の高ぶり、結局は失望で終わってしまうものに過ぎないならば、主イエスはこの時、彼に「救い」を告げることは決してなかったでしょう。主イエスにとって「救い」は、手軽な安易な癒し文句ではありません。主イエスが「救い」を告げる時、そこには彼を引き受ける決断があります。「バルティマイ、あなたのその信仰を、わたしは絶対に失望で終わらせない。あなたはその信仰によって真に救われていることを知りなさい!神は、何があろうともあなたを愛し守られるという揺るがぬ事実を生きていきなさい!」。その救いの決断が、十字架の死と復活の出来事に明らかにされました。

エルサレムでのバルティマイの様子は一切記されていません。彼がその目で十字架の凄惨な出来事を見たのか、それとも逃げ出したのか分かりません。まったく行方をくらましたバルティマイは、いまみなさん一人ひとりにおいて現れています。そして、バルティマイであるわたしたちの前に十字架がはっきりと示されています。たとえ律法違反であろうとも、一人ひとりに神の真実な愛を伝えた、救いを伝えたがゆえに、憎まれ殺されたキリストが示されています。神はこの方を復活させられました。主イエスがその存在をもって語って下さった神の真実な愛は、死をも越えて今日のわたしたちを訪れています。わたしたちを導き、道を進みゆかれるその愛が見えますか?

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