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イエスのたとえ話の中でも有名な「放蕩息子」の話しなのですが、この息子は本当に「放蕩」息子なのでしょうか。

「放蕩」とは「酒や女におぼれて身持ちがおさまらないこと」という意味です。この弟は、父の財産の生前贈与を受けて、その財産で「放蕩の限りを尽くして」というのですから、相当に乱れた生活をしたと感じるのです。

ギリシャ語ではアソートースということばで、「放蕩」というよりは「不安定な」「救いがたい」という意味です。文脈を追いかけると、この息子はユダヤ人が忌み嫌う豚を世話をする職業に就いたとありますから、異邦人の地に出て行ったことが想定されています。ユダヤ人にとって、異邦人の地で、その異邦人と交流して生きることそのものが「不安定で救いがたい」と表現される生活でした。それからすると、「異邦人の都会で一旗揚げようと奮闘したけれど、無茶なことをしすぎて、全財産を使ってしまった」という方が正確かもしれません。

さらにこの息子を悲劇が襲います。その地域一帯に飢饉が起こり、日用品の価格が高騰します。彼は、食べることさえできなくなってしまうのです。それでもこの息子は自分の食い扶持を稼ぐために仕事を探しました。そこで与えられた仕事は、豚の世話でした。豚はユダヤ人にとって最も忌むべき動物でしたので、この仕事はユダヤ人として人間を否定されるのと同じことでした。けれどもこの息子は、生きるためにそれさえも受容するのです。

にも関わらず、なお彼は食べることさえできなかったので、空腹の中でついに彼は豚の食べ物にまで手をだそうとしたというのです。なんという屈辱的な状況でしょう。

そしてその瞬間、彼は「誰もいない」という現実に気づいたのです。

ここでは「食べ物をくれる人が誰もいない」ということばになっているのですが、まじめに働いても、飢えて死にそうになっているのに、そういう彼を誰も見てくれていないのです。つまり、彼のことを本当の意味で心配している人は誰もいないという現実に気づいたというのです。

孤独は人間の苦悩を深め、孤独は人間を絶望の谷に突き落とします。そして、孤独は人間から生きる力を奪いとるのです。まさに、彼は絶望の淵に立たされたのです。しかし、その絶望の淵で、まさに死の谷に落ち行こうかというその時に、彼の心の中に突然と登場する存在があったのです。

「父」です。彼は今まで父という存在を忘れ、自分だけの力で何とかやろうと思ってきたのです。けれども、それは何ともならなかったどころか、彼は今や絶望の淵に立っていたのです。けれども、その時に「自分には父がいた」ことに気づいたのです。父はずっといたのです。しかし、彼が父を忘れて生きてきたのです。けれども、自分のことを本当に愛してくれる人はいないということ痛感したとき、「父がいた」と思い出したのです。

思い出すとは、もう一度体験することなのです。彼は父のもとがどんなに豊かであったかを思いおこし、父と共にあるときの安らかさ、穏やかさ、希望、心の豊かさが彼の中によみがえってきたのです。

そして彼は父の元に返る決意をします。父が彼を受け入れてくれるか分からないけれど、資格のない自分であることは知っているけれど、父のもとで生きたいと願うのです。

ここから新約聖書の中でも、もっとも感動的で美しい光景が描かれています。父は、はるか彼方に息子の姿を認めると、走り寄って抱きしめ、接吻するのです。ずっと息子のことを愛していたのです。思っていたのです。待っていたのです。そして、息子が父の元に自分の心の向きを変えたとき、父の方から走り寄って、彼を抱きしめたのです。

ここに描かれている神は、愛に溢れた父です。息子は放蕩息子ではなく、ごく普通の息子です。当たり前の息子です。しかし神を忘れて生きていた。当たり前の人間が突然に絶望的な危機に陥っていた。その時、本来の自分に返り、神のことを思いおこした。

その時、神は走り寄って彼を抱きしめて、最上の喜びを持って彼を迎えてくれたという 見失った羊を必死になって探し求める男、失った銀貨を部屋中掃除をして探す女、そして自分のところから出ていった息子の帰りを待ち続け、その息子を見つけるやいなや、走り寄って抱きしめた父…それが神だとイエスは言うのです。

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