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テサロニケ教会は、パウロが設立した教会でした。使徒言行録の17章には、テサロニケでパウロが行った伝道は大きな成功を収めたことが書かれています。

この成功についてはパウロ自身も認める所で、テサロニケの教会へ向けて書いたテサロニケの信徒への手紙一で、「主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州とアカイア州に響き渡った。神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。」(Tテサ1:8)と語っています。

パウロがなにもない所に設立した教会の運営が軌道に乗っただけでなく、テサロニケ教会は開拓の後、時間をおかず宣教の拠点となるほど成長を遂げたということです。正に大成功と言える伝道だったのです。

しかし、今日の聖書箇所を見ると、大成功をおさめたはずのテサロニケ教会にも一つのトラブルが発生したことが伝えられています。それはパウロが訪れてから時が経つにつれて、パウロが語った教えを誤解する人たちが現れたというものです。パウロはそのトラブルについて11節に「あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいる」と書いています。少数の人たちが、「間もなく終末が来るのであれば」という考えで働かず、遊んでばかりいて、怠けた生活をし始めてしまったのです。

困難があれば、目を背けたくなり、受け止め難いことからは、逃げ出したくなる。私たちは直面する様々な出来事をどうしても受け入れられないことがあります。どうしても許せない人がいます。分かっていても愛せない時があります。「時に目を背けても、時に逃げ出しても、それで良いじゃないか。」「完璧は無理だ。」私たちはそう思うのです。

しかし、パウロは、「たゆまず善いことをしなさい」と言うのです。「たゆまず」というのは「油断せず」「怠けず」ということです。パウロが言うのは、時に善い行いをしたり、しなかったりするのではなく、「常に善いことをしなさい。」そんな厳しい言葉なのです。パウロは完璧な生き方を求めているのか。そう思ってしまいます。しかし、完全を求めてパウロはこのようなことを手紙に書いたのではありませんでした。厳しい戒めを送ってしまう程に、パウロは神の愛を大切なものと考えていたのです。

パウロは、始めはファリサイ派のユダヤ人として、キリスト教徒を迫害する者でした。イエスを救い主と告白する人々を大人も子どもも、男性も女性も、見つけ出しては投獄し、鞭を打つ、ということをしていたのです。しかし、パウロはその迫害の行いの中で、イエスと出会うのです。迫害を行い、愛されることから最も遠いはずの自分さえも愛してくださるイエスと出会うのです。本来であれば愛されるはずがないのです。復讐されて傷つけられるか、相手にもされないはずの自分なのです。その自分が愛されたのです。その衝撃がパウロという人の生き方を180度変えるのです。

パウロにとって、キリストの愛は、愛されるはずのない者を愛する愛だったのです。それも自らの命をかけてまでの愛です。それを怠けて、油断して、受け止めないこと、愛に答えようとしないことは、イエス・キリストの十字架の愛を無にすることだったのです。

今日の御言葉の表面だけを見ていくと、働かない人全てがパウロにとって戒められているかのように思えますが、この社会には働きたくても様々な事情のために働けない人々が大勢います。聖書が語るのはそのような人たちを断罪する言葉ではありません。「出来るのにやろうとしない」ことをパウロは戒めているのです。愛されているという恵みの内を生きられないからではなく、生きようとしないからです。「神に愛されている」そのことを心から受けとめて、愛に答えて生きて欲しい。パウロはそのように願い、テサロニケの教会に手紙をしたためたのです。

私たちの歩みは、愛せない、受け入れられない、許せない、そんな不完全な歩みです。しかし、その私たちのために、キリストは十字架に付いてくださるのです。完全ではなくとも、神が一人子を十字架に付けてまで私たちのことを愛してくださっているのです。その愛を心から受けとめて、その愛に答えようとする気持ちを持ちながら、歩んで行きたいと思うのです。

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